長身少女の一日
ジリリリリリリ――――
午前7時半、目覚まし時計がある一室に鳴り響く。設定した本人である村田綾子は布団から手を伸ばし、耳障りなベルを止めた。
体を起こし、敷布団の上で小さく伸びをしてから、彼女はゆっくりと立ち上がった。アゴくらいの高さしかない低いドアを背中を大きく曲げてくぐり、部屋から出て洗面所へと向かった。鏡の前で綾子は正座をし、鏡に自分の顔が映るようにしてから蛇口をひねり、手で水をすくって顔を洗い、それからドライヤーで髪を梳かし、梳かし終えたら洗面所を後にして、また頭を下げてリビングに入る。
「おはよー」
綾子はリビングの家族に挨拶をした。綾子の家庭は一人っ子3人家族であり、キッチンでは母が朝食の準備をしており、テーブルでは父がパンを食べていた。綾子が来るのに合わせて、母は1斤分のトーストとサラダ、ジャムの類を食卓へと出した。綾子はそれを次々に口の中へと放り込んだ。食パン1斤というのは、一般的な女子高生の朝食として考えるならばかなりボリュームのある朝食であるが、綾子の体型からしてみれば、標準的と納得できるくらいの量である。もっとも、綾子は少々痩せ過ぎとクラスメートに心配されるような、線の細い、高校1年生のうら若き乙女なのだが――
「ごちそうさまー」
朝食を終え、綾子は椅子から立ち上がり、部屋に戻る。同時に父も、出勤のために椅子から立ち上がった。父は190cmある巨漢な男であるが、綾子の隣では肩に届くほどしかなかった。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい」
父が先に家を出ていき、綾子は部屋に戻ってパジャマから制服に着替える。着替えを終えてから、綾子は制服を少々窮屈に感じて、軽く肩を回した。
「うーん・・・・・・なんか、制服が小さい気がする・・・・・・」
4月の測定で220cmだった綾子の着る制服は当然特注品である。第二次成長期はすでに終えた綾子であるが、未だ年に1、2cm程度伸びている。また、夜のうちに背骨に隙間ができるために朝のほうが背が高いというのは有名な話であるが、その故か、特注で綾子の体にピッタリ合うように採寸された制服は、綾子には若干に窮屈に感じられることがしばしばあった。
「また背が伸びたのかなー? ま、いっか。学校行こ」
窮屈な制服に小さな苛立ちを覚えながら、綾子はドアをくぐり抜ける。
――――ゴン! 鈍い音が綾子の後頭部から鳴り響いた。綾子は中腰になった状態で、赤くなった後頭部を手でさすった。
「いったー・・・・・・またやっちゃった・・・・・・」
ドアに額をぶつけるということは、綾子くらいの長身であればまず経験しない。ドアの高さが綾子のアゴくらいの高さであり、額をぶつけるには、家のドアは低すぎるのだ。しかし頭を下げてドアをくぐり、頭を上げる時に後頭部をドア枠にぶつけるというのは、今のように別のことに気を取られている時にはよくあることであった。
綾子はしばらく後頭部をさすってから、足音をやや荒くして階段を降り始めた。
「いたっ!」
綾子の額から、コンという軽い音がした。天井の高さを均一にするために玄関の頭上に設置された障害物が、綾子の頭を直撃した。ドアをくぐって抜けるのは中学生の頃からの習慣なのにたいして、こちらは最近初めて経験した障害であり、綾子は時々そこに額をぶつけた。
朝から災難続きだと心の中で愚痴を吐き、綾子は玄関のドアをくぐって外に出る。外には、頭上の障害はない、綾子は思いきり背筋を伸ばして、学校に向かって歩き始めた。
身長220cmという長身の綾子は近所では有名人であり、歩いているだけで様々な人から声をかけられる。近所のおばさん、おじさん、小学生が、綾子を道端で見かける度に手を大きく振って綾子に話しかけた。中高生はたいていシャイだが、綾子と目が合うとすぐさま会釈をした。綾子は、自分の知らない人に対しても、挨拶をされれば微笑みながらそれを返した。行き交う人々、そして学校の友人に出会いながら、綾子は高校へと向かった。
肩よりも低い下駄箱の最上段に、綾子の靴入れがある。名前順では綾子の場所は下駄箱の真ん中より下くらいの位置だが、綾子の長身への配慮から特別に最上段を使っていいことになっている。それでも身長220cmの綾子にとってその位置は低く、腰を曲げながら上履きを中から取り出す。靴の大きさは30cmで、下駄箱に入るギリギリの大きさである。今後さらに成長して下駄箱に靴が入らなくなってしまえば、下駄箱の上にむき出しで置くことになるのだろうかと綾子は思い、少し恥ずかしい気持ちになった。
廊下を歩き、途中幾多の人に挨拶と会釈をして、ドアをくぐって教室に入る。そして自分の席につくのだが、綾子は机の前で小さくため息をついた。机があまりに小さく、綾子は着席に毎日苦労しているのだ。しかし、机まで特注するわけにはいかないので、綾子は我慢して小さな椅子机に座っていた。
まず、横向きになって、膝を90度よりもきつく曲げて椅子に腰を掛ける。それから机の下に全長120cmの脚をうまい具合にしまいこむ。華奢な綾子は太ももが机の下に入らないということはなく、むしろ人並みの余裕があるのだが、机の奥行きは40cmであり、対して綾子の太ももは60cmであるため膝が机の下いっぱいまで入り込んでしまい窮屈だ。また授業の始まりと終わりの号令の際の立ち座りがスムーズにできないのも悩みであった。
キーンコーン――
「はい、号令!」
「きりーつ!」
1時間目のチャイムがなると同時に、数分前から教壇で待機していた教師が呼びかけ、学級代表が号令をかける。綾子は椅子を引き、長い脚を机の下から出してから、横向きに立ち上がる。そして挨拶をして、再び先ほどの手続きを踏まえて椅子につく。
気配りのできる教師の場合、綾子が号令の度にせわしくしているのを見て立たなくて良いと指示するのだが、そんな教師は稀である。そして号令後も綾子は机の下で脚をむずむずと窮屈そうに動かしながら、授業を受けるのであった。
キーンコーンカーンコーン――――
終わりのチャイムが鳴り響き、授業終了の号令を終えると同時に、教室の生徒たちは教科書類を手にもって席を立つ。次の授業は化学の演習であり、実験室へと移動する。実験をするわけではないが、2段スライド式の黒板があるので、演習の時はそこを使うことにしている。演習は生徒が黒板に解答を書き、教師がそれを採点する。
綾子は今日の演習の担当であり、実験室に着くなりノートを広げ、黒板の前に立った。190cmという背の低い黒板に中腰で書くのは綾子にとっては苦行である。背が低く届かないのは椅子の上に立つか、やや下の方から書き始めれば済む話だが、黒板よりも背が高いというのはどうしようもない。
しかし、ここは実験室だ。背の低い黒板の上にはもうひとつ黒板がある。綾子は手を伸ばし、背伸びをして上の方から書き始めた。大きな2段スライド式の黒板の上の方に、細長い女子高生が背伸びをして答えを書く光景は、初めて見る者は誰でもその非日常感に目を奪われるものだが、綾子が入学して早半年以上が経った今では誰も気にする者はいない。
「あっ・・・・・・ごめん、黒板消しちょうだい」
「はい」
綾子の頼みを受けて、隣で1段目を書いている友人は黒板消しを手に取り、そのまま真っ直ぐ上に手を伸ばす。綾子はチョークを人差し指と中指で持ったままそれを受け取り、誤字を訂正した。
「村田さん、黒板消しこっちに!」
少し離れたところにいる男子生徒がそう言って手を上げた。綾子は手を伸ばして、彼に黒板消しを手渡した。そして再びチョークを持ち、解答を続けた。
チャイムがなると同時に白衣を来た教師が実験室に入ってきて、支持棒を片手に解説を始める。おかしな点を見つけては、教師は問いた生徒に色々と質問を始める。綾子は教師に何か質問されるかと、緊張しながら待機した。やがて綾子の問いた問題の解説になり、特にこれといった問題もなく解説が終了し、綾子はほっと胸をなでおろした。
更衣室に向かい、特注の体操服に身を包み、綾子は体育館へと向かう。腰をかがめてドアをくぐり体育館に入ると、そこにはバレーボール用のネットがすでに設置されており、綾子はどこか気の引き締まるのを感じた。高校用の女子バレーのネットは220cmであり、綾子の身長に等しい。綾子はネットの隣に立って背くらべをした。若干自分の方が高いように、綾子は感じた。
「綾子って、ネットと高さ同じだねー」
下の方から友人の声が聞こえ、綾子はさっと自然にネットから遠ざかる。身長にコンプレックスはさほどない綾子であるが、220cmという並外れた長身ながらも未だ成長が止まっていないというのを、綾子は少々気にしていた。そしてその友人と雑談をして過ごし、準備体操の後チームに分かれて、試合が始まった。
この高校は伝統的に文化部が活発であり、よって必然的に運動部は弱く、また人数も少ない。体育の授業では運動部の人がやたらと活発的になるものであるが、この高校に関しては誰もが授業として割り切り、平和に楽しむことを第一としていた。教師もまた、それを心がけていた。
「綾子、ハイ!」
リベロがトスを上げ、綾子の背よりも高くボールが上がる。綾子は手を上げ、肘を曲げた状態でそれを地面をめがけて叩きおろした。弱いアタックであった、別に手加減をしたわけではなく、運動音痴でコントロールに自信がないが故の、威力に乏しいボールである。しかし綾子がアタックしたボールは地面をバウンドし、チームに点が入り、綾子たちは素直にそれを喜んだ。
終始ほのぼのしていた体育の授業はやがて終わり、解散する。教室に向かう途中、背中をトントンと叩かれ、綾子は後ろを振り向いた。そこには、身長170cmの友人がニヤニヤしながら綾子を見上げていた。友人は綾子の隣に並んで歩きながら、小さい声で。綾子に言った。
「ねえ、綾子って、ネットより身長高くなったよね?」
その質問に対して、綾子は苦笑いを浮かべながら、小さくコクリと頷いた。
一連の授業が終わり、綾子は部活に向かう。綾子は自分の手で、自分の身長に合った洋服を作りたいと思い、被服部に所属していた。手芸は初めてであったが、綾子は日々勉強をし、経験を積み、多くの試作を作り、もう少しで念願であったドレスが完成するというところまできていた。
西洋の貴族の令嬢を思わせるようなシンプルな作りのドレスであり、綾子の考えていた『かわいい服』を具現化したものである。未完成のドレスを試しに着てみては、綾子は顔をほころばせた。そして壊さぬよう慎重に脱ぎ、再び制作にとりかかった。
「もうちょっとだねー」
先輩が隣から声をかけ、綾子はそれに笑顔で返事をする。
「順調に進んでる?」
「はい、今月中には出来上がると思います」
「そっかー。この服着て、どこかに行ったりするの?」
「いえいえ! 家で着て、自分で楽しむだけです」
「そっかー。頑張ってねー」
大きい部分はミシンで縫い終えてあるため、綾子は手縫いで細かいところを仕上げていく。ゆっくりと慎重に、丁寧にドレスを作っていく。
針仕事をしていると時間は光のように過ぎ去っていく。はっと気がついた頃には部活動終了の鐘が鳴り、外は暗くなり、気温も下がっていた。綾子はきりの良い所で布に針を刺して作業を中断し、ドレスをハンガーに掛けた。上から下まで190cmほどあるドレスは普通のクローゼットには入らないため、被服室にむき出しで保管している。綾子は事故が起こらないか、毎度ヒヤヒヤしながら部室を後にする。
「じゃあねー」
友人、先輩と別れて、綾子は帰路につく。冬が近づき、吐く息が若干の白みがかかっている。普通の学生であればコートを出し始める時期であるが、綾子はそんなものを持ってすらいなかった。綾子はスクールバッグをぎゅっと握りしめ、脇をしめて寒いのをごまかした。
トットットット――――
後ろから、誰かがリズムよく走ってくる音がした。綾子は特に気に留めず道を歩き続けたが、足音は次第に大きくなり、綾子の後ろでピタリと止んだ。綾子が後ろを振り返ると、そこにはセーラー服を着た中学生くらいの女の子が1人、無邪気な笑みを浮かべながら綾子のことを見上げていた。綾子は目の前の女の子を見て妙な違和感を覚えたが、それを検討する前に女の子が先に口を開いた。
「スミマセン! その制服って、S高校のですよね?」
「えっ? まあ、そうだけど」
「よかったあ! 私、来年S高校を受験するんです! それで、ちょっとお話したくなって」
「は、はあ」
その瞬間綾子は、女の子に抱いていた違和感の正体に気がついた。綾子は220cmという、男性でも他に肩を並べる者のいないほどの長身であり、人と並べば常に胸から上が飛び抜けてしまう。しかし目の前の女の子は、そのあどけなさの残る表情とは裏腹に綾子のアゴに届くくらい背が高い。綾子はそれに気がついてからゆっくりと目を見開き、女の子の全身を凝視した。特注と思われる細長いセーラー服に身を包み、女の子は綾子を見上げながらニコニコと笑っていた。
「あ、あなた身長いくつあるの?」
「私ですか? 前測った時は199cmでした。お姉さん、私より高いですよね! 私、自分より背の高い人って見るのすごい久しぶりで、しかもS高校の制服だったから、思わず走ってきちゃいました!」
女の子は相変わらず無邪気な笑顔で、綾子を見上げていた。身長およそ200cmの女の子にとって、自分よりも背の高い綾子は非常に珍しい存在であるが、それは綾子にとっても同じであった。自分のアゴに届くほどの長身の女の子の存在というものを、今まで考えたこともなかった。
「私、絶対S高校に入学します! 名前は宮本紗也って言います。覚えていてください、センパイ!」
「あ、う、うん! 受験、頑張ってねー」
「ハイ! じゃあ、また春に会いましょうね!」
女の子はそう言いながら、走ってきた道を再びリズムよく走りながら戻っていった。綾子はしばらく彼女の背中を目で追ってから振り返り、再び自宅の方面へと歩き出す。
「・・・・・・私と同じくらいの身長はさすがに・・・・・・」
綾子はそう、呟いた。それからはいつも通り、道行く名も知らぬ知人に声をかけられながら、真っ直ぐに自宅へと向かった。
「ただいまー」
「おかえりー。お風呂開いてるわよー」
「はーい」
自室で制服を脱ぎ、下着姿のまま浴室へと向かい、浴室の折りたたみ式の簡易ドアを開けて中に入る。浴室の天井は低く、200cmくらいしかない。よって綾子はいつも腰を曲げながら中に入り、小さな椅子に座ってシャワーを浴びるのだ。本当は大浴場でゆったりと湯船に浸かりたいものだが、綾子の家から銭湯まではやや遠く、またお金もかかるため毎日そこまで通うことは現実的ではなかった。
15分くらいでシャワーを終え、バスタオルで体を拭いてから綾子は再び中腰になって浴室から出る。天井の低い浴室を出た後、綾子は背筋を反らせながらバスタオルで体の水気を完全に拭き取り、新しい下着に着替えて自室へと戻る。
「ご飯できてるわよー」
「はーい」
特注のパジャマに身を包み、綾子は頭を下げて部屋から出る。特注とはいってももう2年前に仕立てたものであり、最初はピッタリだったパジャマも今では足首が見えてしまっている。手をこすりながら寒い廊下を通って、綾子はリビングに入り夕食を取った。
シングルサイズの敷布団を2つ並べ、その上に毛布を2つ並べれば、綾子専用の寝床の完成である。ベッドは当然サイズがなく、敷布団でも既成品となれば同様だ。毎日使うものだから、母に頼んで特注しようと考えたこともあったが、干すときの手間を考えればとてもその気にはならなかった。寝返りをうてば布団か毛布がずれ、その隙間から冷気が入り込み綾子の体温を下げることがままあるが、それはもう仕方のないことだと、綾子は今では諦めている。
電気を消し、布団に潜り、綾子は目を瞑る。時刻は22時、女子高生にしては早めの就寝であるが、綾子は睡眠不足というものが大の苦手であった。最低でも8時間は寝ないと、その日は一日中寝ぼけ眼で過ごすはめになるほどであった。一時期、成長を止めようと睡眠時間を削った事もあったが、その試みは3日と続かなかった。そして、寝る子は育つではないが、綾子はスクスクと今の身長まで成長したのである。
また、綾子には寝ているうちに肘と膝を曲げて体を丸めようとする癖があった。これも、成長を止めようとした試みの名残であった。小学6年生の時からの癖であり、当時すでに200cmに達していた彼女はそうすることで、せめて腕と脚の伸びだけでも妨げようとしたのだ。しかしその試みも成果は上がることなく、綾子はその後2次成長期に入り、今まで20cm以上背を伸ばしたのであった。
夢と現の間をさまよいながら、綾子は無意識に下校時に出会った女の子のことを思い出していた。
綾子は学校の廊下を歩いていた。綾子を初めて見る新入生たちは皆、目を丸くして綾子を見上げては、新しい友人と耳打ちをして、何かをコソコソと話している。綾子はそんな新入生を一切無視して廊下を歩いていた。後ろからトットットット、とリズムよく走ってくる音がし、綾子は既視感を抱きながらも前を見て廊下を歩く。トン、と肩を叩かれ振り返り、いつもの癖で下の方を見たがそこには制服の布地があるのみ。顔を上げていくと、そこには例の女の子、宮本紗也がニコニコと無邪気な笑みを浮かべて綾子を『見下ろして』いた――――
「――――ハッ! ・・・・・・あ、夢か」
携帯を開き時計を見ると、時刻は23時30分。夜中である。今さっきまで見ていた夢の内容はたった今記憶から消去され、綾子はその内容を全く覚えていない。ただ、『なんとなく楽しい夢だった』という若干の心地よさのみが、綾子の胸の中に漂っていた。綾子は携帯を閉じて、知らない内に寝相でくずれていた毛布を整え、再び眠りについた。
-FIN
創作メモ
RGTS差分表現を極限まで使ってみようという試みから書き始めました.もっともっと書きべきことが合った気もしますが,お話としては綺麗に閉じたと思っています.次は成長もので書いてみたいと思います.