一期一会

 電車が到着した。いつもの通り人は少ないが、電車の中に足を踏み入れようとする僕を拒む空気がそこにはあった。異様な風貌の人がそこにいた。直立して、首をやや曲げてうつむきがちになり、手元の本に顔を近づけて読んでいた。
「プルルルルルル――」
 発射のベルが鳴り、僕は急いで電車に飛び乗る。目の前に、先の異様な人が立っていた。うつむきがちに本を読みながら、彼の頭は天井に接触していた。その長身もさることながら、マスクで顔の半分を隠し、厳ついヘッドホンで耳を覆い、髪は肩よりも長く、大きな手で文庫本を持って顔をこれでもかと近づけて読んでいた。
 車内に人はほとんどいない。音も、電車が線路の隙間を通過する時に発する音くらいしか、聞こえない。静かな社内には僕とその人しかいなかった。僕は座席に座り、彼と同じように本を読み始めたが、彼のことが気になって仕方がなかった。本を読みながらも彼の方をチラチラと見てしまった。・・・・・・何か、妙だと感じた。背は高いが、線が異様に細い。それが、その人の異様さに磨きをかけていた。まるで子供をそのまま引き伸ばしたかのように細やかなのだ。
 ・・・・・・女の子なのではないか、僕の脳裏にふとそんな疑問が浮かんできた。一度そう思ってしまうと、その人の仕草すべてが僕の仮説を物語っているように思えた。髪の長さ、線の細さ、指の細さ、顔の小ささ、などなど。
 チラ、と僕に目線が注がれた。僕は反射的に目をそらしたが、僕の網膜が一瞬捉えた彼女の大きな澄んだ目は僕の心を掴んだ。それ以降気まずくなって彼女を見ることはやめたものの、僕は読書に全く集中することができなかった。常に彼女のことばかりを考えていた。

 職場の最寄り駅に到着し、僕はさっと席を立って電車の外に出た。最後に一瞬だけでも彼女の姿を見ようと振り返ったが、目線をそちらに向けた時にはすでに彼女は僕のところからは見えなくなっていた。僕が振り返るのが遅すぎたのだ、それくらい、僕は足早になっていた。
 人生一期一会とは言うけれど、次の機会を心の底から求めている自分がそこにいた。彼女にもう一度会いたいと思った。
 うつむきながら暗い夜道を早歩きで職場に向かう。これから仕事だ、煩悩を払わなくてはと目の前で手のひらを二三度揺らしてみたが、全く効果はない。彼女に会いたい、もう一度会えたら、その時は恥も外聞も捨てて彼女にメールアドレスを渡そうと思う。
 いつもより10分ほど早く職場についた。普段からシフトの10分前には到着することを心がけているので、仕事まであと20分はある。僕は建物に足を踏み入れた。所長がそこに立っていた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
 所長はいつものごとく、丁寧語で返事をする。自分よりも5歳年上の大卒の新人、僕は今年で2年目。こんなことはよくあることだし、僕も気にしていない。しかし所長は、腰を低くして、低い背をさらに低くして僕ら部下に接してくる。僕も165cmと低いほうだが、所長はもっと低い。僕はそんな所長が少し苦手だ。
「・・・・・・今は、何をされているんですか?」
 落ち着きなく玄関付近でうろうろする所長に、僕は声をかける。所長はビクリとしてから返事をする。
「あ、えーと・・・・・・今日は、新人さんが来る日だから。あれ、早川くんに言ってなかったっけ?」
「あ、思い出しました。すこし特殊な新人と」
「そうそう。高校行ったのに人間関係で中退しちゃって、ひきこもりになっちゃって。で、職を求めてうちに」
「はあ、続くんですか、そんな人?」
 僕はむっとしながら答えた。2年前の出来事が瞬時に思い出されてきて、黒い感情が僕の脳を侵食する。恵まれた環境にありながら、それを当たり前と思う、そんな奴がどうしても嫌いだ。巷に溢れていることはわかっているが、嫌いだ。
 ――キー・・・・・・
 ドアがゆっくりと開く、目を泳がせていた所長ははっと振り返り、『その人』を確認して声を張り上げた。
「あー、田中育美さん! お久しぶりです、遠いところをわざわざ」
 その育美という人を見た時、さっきまでの黒ずんだ頭が白い霜を帯びながら凍結していった。長い髪、マスク、ヘッドホンはつけていないが、最大の特徴であったその長身が、彼女その人であることを証明した。
「あ、早川くん。こちらが今言った新人の、田中育美さんです。今日からアルバイトで夜勤に入ってもらいます。田中さん、私も指導しますが、先輩の早川くんが主に面倒を見てくれると思います」
 彼女は僕を見下ろしながら小さく会釈する。
「・・・・・・よろしくおねがいします」
 とても小さな声だった、しかし僕の耳にはきちんと彼女の声が聞こえた。車内での一瞥と同様に、田中さんは大きな目で僕のことをじっと見てきた。
「シフトは10時半からなので、それまでは控え室でゆっくりしていてください。早川くん、案内してもらえる?」
「は、はい。もちろん・・・・・・」
 僕はドアを全開にして育美さんを誘導する。背伸びすれば天井に付きそうなほどの長身を大きく曲げて、トンネルでもくぐるようにして、彼女は小さなドアを通過した。
 人生一期一会。そんな熟語が僕の脳裏に浮かんでくる。つい数分前まで僕の頭を占領していたものだ。僕はとっさにポケットからペンとメモ帳を取り出し、震える手でメールアドレスを書きはじめた。
-FIN