お嬢様
優雅な立ち振る舞い、上品な微笑み、落ち着いた物腰――――。平凡な公立中学校に通う思春期真っ盛りの少女宮本春香は、そんな『お嬢様』に憧れている。箸が転がる度に自分も笑い転げ、好きな人を見つける度に犬のように駆け寄っては顔色を伺う。そんなはしたない自分を変えたいと春香は思った。それは、そんな自分のはしたなさのせいで、好きな人に嫌われかねない大きなミスをし、春香は今でもそれを後悔しているからであった。
目覚まし時計のベルが鳴り、春香はそれを優しく止める。そして布団から立ち上がり、中腰になった状態でパジャマから中学校の制服に着替える。そして中腰のまま家の中を歩き、しゃがんでドアをくぐり、正座した状態で洗顔をし、リビングに入ってはにこやかに微笑んで家族に「御機嫌よう、皆様」と挨拶する。家族はそんな春香に対して優しく微笑んだ。家の中ですっと背筋をキレイに伸ばせないのが最近の春香の悩みの種であるが、それに関しては仕方がないと、春香は割り切っていた。
いくら春香であっても、椅子に座った状態では背筋を伸ばせる。椅子が低いために脚が窮屈となるが、春香は上手く脚を斜めにして、背筋をすっと伸ばす。机が低くなるが他に比べれば些細な問題である。春香は落ち着いた様子で朝食を食べ終え、ティッシュペーパーで口元を上品に拭い、胸の前で手を合わせて「ごちそうさま」と言った。
それから春香は椅子から立ち上がり、カバンを手にして玄関へと向かう。階段上部にある障害物を避け、狭い玄関で器用に、そして優雅に靴を履き、ドアを開けて外に出る。煩わしい障害物がなくなり、春香は背筋をすっと伸ばして道を歩き始める。しかし春香の場合、常に前を見て姿勢を良くしているわけにはいかない。小学1、2年生くらいの背丈は春香の股よりも小さいくらいであり、前を見ていれば視界から外れ、不本意ながら彼らを蹴り飛ばしてしまう。そのため、姿勢が崩れることを惜しく思いながらも、春香は常時足元を気にして、軽い猫背とならざるを得ないのである。
「あー、巨人のおねえちゃんだー!」
「でっかいおねえちゃんおはよー!」
登校途中の小学生の集団に出会い、無邪気で悪意のない侮辱を受けた春香は顔をしかめそうになったが、『お嬢様』としてそれをぐっとこらえてにこやかに笑い、手を振った。小学生たちは男女を問わず春香の柔らかい笑顔に胸をときめかせた。一方で中高生以上の人々は、あまりに規格外な春香を見ては毎朝怪訝な表情を浮かべるのであった。
特別にロッカーの上に置かれた特注の上履きを手に取り、代わりに外履きを置く。300cmある校内は自宅に比べたら伸び伸びできる造りにはなっているが、平均身長に合わせて作られた施設であることに変わりはなく、春香は体を縮めながら校内を歩いた。
250cm、その人間離れした巨体を周囲の生徒は、同期も先輩も後輩も、春香の巨体に畏怖し、嘲笑した。陰口を言う者は数知れず、罵倒する者も珍しくなかった。しかし春香は一度たりともそんな負の感情に腹を立てたことはない。どんなものに対しても、春香は『お嬢様』として接した。それが相手の感情を逆撫でするものであっても、春香は気にしなかった。過去の前科を忘れた日はなかった。『お嬢様』になった目的を忘れたことはなかった。
*
ルーティンワークを済ませて帰路につく。春香は小さくため息をついた。愛するものを失い、友人もいない。可愛い後輩はいるが、部活動で忙しい。進路の問題もある。就職すべきなのか、進学すべきなのか。勉強が嫌いなのでもなく、働きたくないわけではない。春香の場合にはもっと切実な、働けるか、施設を使えるかという問題があった。春香は苦悩していた。これからどうやって生きていこう。恋人の家内となることを夢にしていた彼女であったが、その気持ちだけで生きていけるわけではない。友一郎の今後が不定である以上、春香は学ぶか働くかを選択しなくてはならなかった。しかしそのためには先のような根源的な問題が生じるのだ。
ドアをくぐって家に入り、中腰で移動する。リビングで電話が鳴った。冷静に、慎重に、慌てて巨体で物を壊すことのないように家の中を移動し、春香は受話器を手にする。
「もしもし、宮本です」
「もしもし、鶴田ですけど、もしかしてハルちゃん?」
春香は小さく驚いた、一瞬頭が恋情に侵食されたが、すぐに『お嬢様』に戻った。数カ月前まで共に過ごしていた愛する人からの電話に、春香は胸を踊らせながらも冷静に対応することを心がけた。
「はい、春香です。友一郎さん、ご無沙汰しております」
「え? あ、う、うん。久しぶり」
お転婆娘だった頃の春香しか知らない友一郎は、春香の言動に戸惑いを隠せない様子だった。しかしすぐに目的を思い出して、春香に問いかける。
「ハルちゃん、すごく急なことだと思うんだけど・・・・・・うちに、来ないかな?」
「はい?」
春香は集中して、一語一句聞き逃すまいと、友一郎の話す事情を真剣に聞いていた。春香にとって、夢にも思っていなかった選択肢だった。春香は即断した。自分一人で決定できることでないが、即断した。
「行きたいです。ママ、あ、お母様に許可を得なければなりませんが、行きたいです」
友一郎は、春香が何かに感化されているだけだと思い、昔の春香らしさを思い出して受話機の奥で小さく笑った。
通話を終えて、春香は幸せに浸っていた。恋人の声を聞けたこと、悩みがいくつか解消したこと。春香は踊る胸を手で押さえながら、落ちつきはらって自室へと戻った。
-FIN