見上げる先に
「智子さん、着きましたよ」
後部座席で寝ている智子さんをさする。彼女は目を小さく開け、眠たい目をこすりはじめた。たまに忘れてしまうことだが、智子さんはまだ15歳、中学校をさっき卒業したばかりの少女だ。僕はそれを思い出して、優しく体を揺すった。
「よう、優希! 帰ってきたのか!」
その声を聞いて、僕の顔が自然と歪む。思い出した、そういえばこんな人もいた。途端に智子さんがここでうまくやっていけるのかという不安が出てきた。寝ぼけ眼の智子さんをそこに置いて、僕は車の外に出る。
「お兄さん、久しぶり」
「ははは! 相変わらず小さいなあ!」
兄は僕の肩を掴んで前後に揺らし始める。この仕草は昔からの兄のお気に入りだ。兄は身長160cmと小柄だが、僕のほうがさらに小さい。それを実感するのに最も効果的なのが、この動作らしい。僕は兄が満足するまで、じっとした。猿に言葉は通じない。努力は虚しく、耐えるが勝ちだ。
車の方からガタガタと音がする。振り返ると、智子さんの脚がにょきっと車内から飛び出てきた。
「智子さん、大丈夫ですか?」
「うんー、大丈夫」
眠そうな表情で、智子さんは長い体を器用に動かして狭いドアから外に出て、車の隣で思い切り伸びをした。大きなボックスカーを借りたものの、智子さんの肩までしか届いていない。広大な果樹園をバックにして伸びをする智子さんは、どこか神々しく見えた。
「うわー、すっごーい! 優希さん家、大きいね」
智子さんは後ろの果樹園よりも、家の方に先に目がいったらしい。年季の入った屋敷を目を輝かせながら見ている。
「あら優希、帰っていたのね! で、そちらがお嫁の智子ちゃん?」
「あ、お母さん。お嫁じゃなくて、スタッフね、給料出すよ。智子さん、こちら僕の母の、高野真里さん」
「は、初めまして! 今後ともお世話になります、真里さん!」
「まー、本当に大きい。八尺(やたけ)さんよりも大きいんじゃないかしら。智子ちゃん、別にお義母さんって呼んでいいのよ」
「お、お母さん? 私はここの娘になるんですか?」
「ええ、今日から家の子よ、智子ちゃん」
「は、はい! よ、よろしくおねがいします!」
微妙に噛み合わない会話を、僕はほのぼのとした気持ちで聞いていた。そう言えば、母はこんな感じの人だ。我が家で智子さんがうまくやっていけるかどうかという僕の不安はこの瞬間に霧散した。母とうまくやっていけるのなら、おそらく大丈夫だろう。
「智子ちゃんのお部屋はこっちよ! お部屋と言っても、もう使ってない物置を綺麗にしただけだけど」
「いえ! お母さんがくれるものなら何でも嬉しいです!」
「まあ、嬉しいこと言うのね」
「母さん、自分、さきに着替えて待っているから。智子さん、果樹園を案内するので、終わったら車のところに来てください。ゆっくりで大丈夫です」
「あ、はーい」
「智子ちゃん、こっちこっち!」
僕は智子さん達とは反対方向に、僕らの方を呆然と見ながら突っ立つ兄を横切り事務所へと向かう。久々の農作業だ、これからこの土地をどう利用していこうかと考えるだけで、胸が高鳴るのを感じる。
*
「こちらが桃です。ピンク色のが蕾です、もう少しで花が咲きますね」
「うわー、かわいい!」
智子さんは腰を曲げて下の方の蕾を観察し、また背筋を伸ばして背伸びして上の方の蕾を観察する。彼女のそんな様子を見ながら、僕は智子さんを連れてきてよかったと思った。脚立を使っての作業は時間と労力を浪費する、立ったまま流れるように作業出来れば理想であり、そのように剪定するもののどうしても高いところにも実はついてしまう。智子さんとペアを組み、下の方は僕らが、高いところを智子さんがやればかなりの効率化につながることが期待できる。そのためのスカウトだった。
「ちょうど今の時期に摘蕾(てきらい)と言って、不要な蕾を摘むんです」
「えー、せっかくできたのに摘んじゃうの?」
「はい、甘い実を作るためです。養分は有限なので」
近くの枝を手に取って、指で蕾を落としていく。智子さんは中腰になって枝に顔を近づけて、じっと見ていた。その真面目さ、純粋さに、僕は自然と目を細めた。
「智子さんも良ければ。高いところをやってもらえると助かります」
慎重に枝を手に取り、ゆっくりと蕾を積んでいく。
「あ、緑のは取らないで! 葉芽(はめ)といって、葉っぱの赤ちゃんです」
「は、はい!」
智子さんが枝一本分の作業を終えたところで、再び果樹園を案内する。今日は一日かけて果樹園の案内し、明日から僕と一緒に作業して果樹の細かい取り扱いを覚えてもらおうと思っている。
「智子さん、次は栗の方を案内します」
「・・・・・・」
返事が聞こえず振り返ると、智子さんは栗とは逆方向の、山の方を見つめていた。
「・・・・・・智子さん?」
「はっ! あ、ごめんなさい。ぼうっとしてました」
「いえ。どうかしましたか?」
「えーと・・・・・・」
智子さんが指差す先には、木々の間からこちらを覗く1人の女の子がいる。それを見て僕は納得した、そう言えば智子さんと歳が近いかもしれない。
「あー、八尺さんとこのお嬢さんですね」
「八尺って、さっきお母さんが言ってた」
「そうですそうです、梨緒さーん!」
僕が大きく手を振ると、梨緒さんは山の斜面を下って小走りでこちらに向かってくる。僕よりも8つ下だから、次で中3か。
梨緒さんは僕ではなく、智子さんに向かってきた。数年ぶりに会った梨緒さんは一段と成長していたが、お母さんよりはいくらか小柄に見える。梨緒さんは何も言わずにじっと智子さんを見上げた。智子さんも、頭2つほど小柄な梨緒さんを何も言わずにただ見下ろしていた。
「は、初めまして、前山智子って言います。15歳です」
「・・・・・・初めまして、八尺梨緒です。14歳です」
「梨緒ちゃんっていうんだ。身長、高いね」
「智子さんも。私、自分より高い人って、お母さん以外で初めて見ました・・・・・・」
しばらく頭上で繰り広げられる淡々とした雑談を聞いてから、僕は栗の方に向かって歩みを進める。
「あ、優希さんごめんなさい」
「いえ、ごゆっくりどうぞ。別に明日でも問題はありませんから」
梨緒さんに軽く会釈してから、僕は再び歩みを進めた。やることはいっぱいあるし、それは智子さんも同じだろう。異国に単身でやってきた彼女にとって一番大切なのは、仕事よりも人間関係の構築かもしれない。仕事はいつだって僕が教えてみせるが、人付き合いはそうはいかない。なら、そのためであれば1日くらい消費したところで別に問題ではない。
「あ、あの、初対面なのに恐縮ですけれども、身長っておくつですか?」
「えーと、270cmくらいです。多分、さすがに止まったと思います」
「270! あ、ごめんなさい、大げさに驚いてしまって」
「ううん、全然気にしてないよ! 梨緒ちゃんはいくつあるの?」
「私は220cmくらいです。毎年10cmくらいずつ伸びているので、どこまで伸びるのか不安で。お母さんが242cmあるので、それくらいで止まるといいのですけれども」
「220cmかー、私も去年の最初はそれくらいで、すごく伸びたなー」
「え! そ、そうなんですか?」
女3人で姦しとは言うが、2人でも十分に盛り上がっている。似た境遇を持つ貴重な仲間に出会えた喜びがその声量に表れているようだった。そんな少女のお喋りを聞きながら、僕は僕なりに実家の今後についてあれこれと考えていた。
-FIN