300cmの世界
「300cmの世界、ですか?」
会議室で、1人の女性がそう言った。
「はい、カノンさんにぜひ、お願いしたいんです」
企画書に目を落とし、それを斜め読みする。300cmの世界を体験するというテレビの企画。竹馬にでも乗るのかと、カノンは勝手に予想した。不思議な企画だ、カノンが最初に抱いた感想はそんなものだった。
「それにしても、300cmって・・・・・・生活とか、大変になりそうですよね」
「それが本企画の主旨です! 300cmになった時、人はどんな生活を送るのかという、実験ですから」
「はあ」
カノンは企画書を最後まで目を通し、1ページ目に戻る。そして目の前の、2人の男性スタッフを見た。2人はカノンの視線を受けてごくりと唾を飲んだ。
「はい、受けてみたいと思います」
「ありがとうございます!」
2人そろって頭を下げる。企画が通ったと歓喜する2人に向かって、カノンは優しく微笑んだ。
企画初日、カノンはとあるスタジオに呼び出される。そこでカノンは身長体重スリーサイズの測定、さらには血液検査、レントゲンまで撮った。カノンはこれらの検査の意味がよくわからなかったが、取り敢えずスタッフの言うことに従った。
「カノンさん、身長181cm」ですよ! 伸びたんですね」
身長測定の時、担当のスタッフが結果を見て笑う。カノンはその結果に苦笑いを浮かべた。
「えー、誤差じゃないですかー」
笑ってごまかすカノン。マネージャーにも言っていないことだが、カノンの成長は未だに続いており、1年ほど前から181cmになっていたのだ。
「えー、最後にこちらを飲んでください」
瓶に入ったスポーツドリンクのようにやや濁った液体を、カノンの前に置く。カノンはその正体不明の液体に眉をしかめたが、バリウムみたいなものだろうと思い、ぐっと一気に飲み干した。味はやや薬の風味がするスポーツドリンクという感じで、後味も特に悪くなく、カノンは安心した。
「では、今日はこれで終了です。お疲れさまでした」
「え? 今飲んだのは」
「効果は明日出ますので、その時にまた」
カノンは首をかしげながら、帰りの支度を始める。終始変な企画だと思った。テレビの企画にも関わらず、今日はカメラも入っていなかったのだから。
「ではカノンさん。明日、『300cmの世界』、よろしくお願いします! 1日密着させていただく予定ですから」
「はい」
24時間監視され続けるというのは疲れることであるが、カノンは仕事だと割り切った。この頃はまだ、この奇妙な企画の主旨を、彼女は何も知らなかったのだから。
背中に硬い感触を覚えて、瞼に光を感じて、体にだるさを感じながら、カノンは目を覚ました。
「おはようございます」
小さな声でそう言うスタッフ。ああそうか、今日は密着されるんだと、カノンは思い出す。その企画は、『300cmの世界』。
「おはようございます」
仰向けでスタッフの方を見ながら、カノンは答えた。体はだるかったが、これから120cmの厚底ヒールでも履かされるのかと思うと少し楽しみになった。
「では、『300cmの世界』、スタートです!」
カーン。という音がカノンの脳内に響く。まずは起き上がって、歯磨きをして、朝ごはんを作ろうと、モーニングルーティーンを頭の中に思い浮かべながら、カノンは体を起こす。
「・・・・・・え?」
カノンの目の前に、男性スタッフの胸。彼女は今、スタッフを見上げている。見上げるのは、床に座っているのだから当然だけれど、問題はその高さ。
「どうですか、300cmになった感想は?」
「へ?」
辺りを見渡し、次に自分の体を見て、スタッフの体を見る。誰もが楽しそうに笑いながら自分を見ている。
「・・・・・・大きい?」彼女の口から最初に出てきた言葉がそれだった。
「そりゃあ、300cmですから」
周りのスタッフ数人がこくこくと首を縦に振る。そしてカノンはようやく状況を理解した。自分が本当に、身長300cmになっているという現状を。
「とりあえず、立ってみてください」
言われるがままに立ち上がる。床に座った状態から、正座へ。この時点ですでに、スタッフと目線が一緒になった。
それからカノンは、立膝になり、しゃがみこみ、立ち上がる。ぐぐぐぐぐっと目線が高くなり、スタッフたちを見下ろし、中腰になったところで天井に頭をぶつけた。
「どうですか?」
「・・・・・・きついです」
ははは、っとスタッフ陣からの笑い声。一方カノンは戸惑っていた。テレビの企画とはいうものの、人間が巨大化したというあり得ない今の状況。そしてこの状況を異常だと思っているのは、自分だけなのかと。
「では、どうぞいつも通りに」
「あ、はい。まずはー・・・・・・」
カノンはさっき考えたルーティーンを思い返して、言葉を選んだ。
「まずは、歯磨きからですね」
カノンはハイハイで洗面所へと向かう。身長が伸びた分、当然横幅も大きくなっている。いつもはドアを半開きにするだけで中に入ることができるのだが、今は全開にしないと体が入らない。
そして、2/3くらいの大きさに縮小された歯磨きセットを、手先を駆使して使いこなす。3本の指で歯ブラシをつまみ、おなじく3本の指で歯磨き粉を出す。一方歯の大きさは歯ブラシよりも1.5倍ほど大きく、いつもの感覚では思うように磨けない。
「歯磨きがしにくいですー」
ははは、っと笑うスタッフ陣。いつもの2倍くらいの時間をかけて、カノンは歯磨きを済ませて洗面所からハイハイで出て行った。
「次は朝食を作ります。いつもはオフの日はもっとおしゃれなモーニングセットを作るんですけど、今日は料理が怖いので、パンと目玉焼きでシンプルにいきたいと思います」
段々と状況に慣れてきて、カノンは仕事を意識していつものようにカメラに向かって話を始める。そして小さな袋からパンを取り出し、トースターにかけた。
「いつもは2枚なんですけど・・・・・・なんか小さいので、4枚で」
それから、冷蔵庫にハイハイで向かい、卵を2つと、レタス、トマトを取り出した。
「あ、すごい。正座したままキッチンが使えます」カノンはふっとそれに気が付いた。
「私、身長が高いので、キッチン低くて使いにくいなーってよく思っていたんですけど、今はちょうど良いですね」
雑談をしながら、器用な手先で手際よくレタスをちぎり、トマトを切り、皿に盛りつけていく。その時、彼女は自分の服装に目がいった。
「今気づいたんですけど、私いま、パジャマですよね」
「はい」スタッフが応える。
「出かけための服はー・・・・・・」
「こちらで準備しております」
カノンはそれを聞いてホッとした。と同時に、自分はいつこのパジャマに着替えたのだろうかという疑問がわいたが、それ以上言い出すと全てに問いを投げたくなってしまうので、心の中に収めた。
パンが焼きあがり、ダイニングテーブルにモーニングセットを運ぶ。2人前のシンプルな朝食を前に、カノンは手を合わせた。
「いただきます!」カメラ目線でかわいらしく微笑んでから、パンをかじる。薄く、小さいパン。こんなことになるなら厚切りを買っておけばよかったと、カノンは思った。
「お味の方は?」
「・・・・・・うん。ふつーです」微笑みながら答える。そんなカノンの素直な反応にスタッフは笑った。
食事を終えて、食器を片付けて、カノンは正座で膝の上に行儀よく手を置いて、カメラに向かって話す。
「えー、今日はショッピングに行こうと思っていました。行きつけのお店から、探してたの入ったよーって言われていたので。でもー」自分の体をまじまじと見てから。
「今の体で行けるかなー?」と、首をゆっくり傾けた。
「いつも通りのカノンさんでいいですから」
今の状況がすでにいつも通りではない、という野暮な突っ込みはせず、カノンは黙り込む。少し考えてから、カノンは決心した。
「わかりました。電車に乗って、お出かけしましょう!」
スタッフが嬉しそうに大きくうなずいた。
カノンは巨大なパジャマを脱いで、番組が用意した特大の服に着替える。
「こうしてみると、私のパジャマ、でかいですね」
床にパジャマを上下並べてみる。プロデューサーの指示で、下っ端スタッフが、その横に寝そべった。パジャマの上下どちらか一方でも、成人男性と同じくらいの丈がある。カノンはそれを見て、なんとなく恥ずかしい思いがした。
そして、ゴミ袋のように巨大で不透明な袋を2つ、スタッフから「外着です」と言われながら渡される。
「どんなのかなー」カノンは袋を覗き、中身を取り出す。カノンの顔が今日で1番明るくなった。
「これ、私の普段着ているものじゃないですか! てか、クローゼットに同じのありますよ」
カノンはハイハイでクローゼットに向かい、服を取り出す。たった今袋から取り出したものの女児用サイズがそこにあった。
「すっごいー・・・・・・」感嘆しながらカノンはそれに着替える。見た目だけならいつも通りのカノン。しかしその大きさは300cm。
小さいカバンを手に、カノンは駅に向かう。いつもはマスクと帽子で変装をするが、今日はテレビの企画なので問題ない。
道行く人は誰もがカノンを見て驚いた。テレビでしか見れない大物女優が歩いていることに、目を見開いた。
「あのー」顔を赤くして、カノンに寄ってくる少女。カノンの脚の長さよりも低い、145cmくらいの少女がカノンを見上げている。
「い、一緒に、しゃ、写真撮ってもらっても、いいですか?」緊張のあまり、どもりながらお願いする少女。そんな少女に、カノンは優しく微笑む。
「うん、いいですよ」
カノンの隣に少女が並び、そんな2人をスタッフが写真に収める。少女は興奮で顔を耳まで真っ赤にしながらカノンの脚にぎゅっと抱き着いた。少女の腰にカノンの膝があるという現実離れした光景も、今のカノンでは普通にできてしまう。
「ありがとうございます!」少女は最敬礼をしてから、スキップで去っていった。カノンはそんな少女の背中に向かって静かに手を振った。そして彼女はあることに気が付いた。
「今気づいたんですけど、私カーブミラーよりもでかいですよね」
そう言いながら、カノンは交差点にあるオレンジ色のカーブミラーに近づく。肩ほどの位置に、それが来る。それで髪形をチェックしてみるものの、膝を曲げる必要があるのでカノンは辛そうにしていた。
駅に到着。バッグからフェリカを取り出して、長座体前屈でもするような勢いで地面に向かって手を伸ばし、自動改札にタッチした。自動改札は狭い、カノンは平均台を歩くときのように足を縦に並べながら、自動改札を通過した。跨いだ方が早いとは思いながらも、カノンは律義にそうやって通過した。
「さて、ここからが問題です。わたくしカノンは、電車に乗れるのでしょうか?」
カメラには笑顔を向けながらも、カノンは内心不安だった。テレビとして、ここで乗れないとなってしまったら、あとは家で映画を見るくらいしかやることがないのだ。
電車がやってきた。電車よりも、カノンの方がやや背が高かった。電線から電気を供給するために使われるパンタグラフという菱形の部品が、カノンの目の前にはあった。
「では・・・・・・」カノンはしゃがみ込んで成人男性くらいの高さになってから、電車に乗り込む。思いのほか、普通に乗ることができてむしろあっけない気持ちになった。
「このまま20分、しゃがみっぱですか」そう思うと気が沈んだが、撮れ高が取れそうで良かったという女優魂がカノンを笑顔にした。
「あの、もしかしてカノンさんですか?」
道を歩いていても目立つカノンのこと、電車内ではなおさらだ。気が付けばカノンの周りには人が集まっていた。握手を求められるたびに、カノンは快くそれに応じた。大きな手でファンの両手を完全に包み込んだ。
電車のドアが開き、カノンはしゃがんだままそちらに向かい、脚を伸ばす。20分ぶりの300cmからの光景。歩けば広告が目に映る駅構内でも、カノンの目線の高さにはそんなものは1つもない。あるとすれば、むき出しになった太いパイプとか、案内用の看板とか、そんなものだ。カノンは頭上に注意しながら、同時に足元の小人にもそれ以上の気を払いながら、出口を目指した。
休日の繁華街は人でわんさしており、カノンはそんな人々を蹴り飛ばさないようにと、慎重に目的の店へと向かう。おしゃれな店はたいてい天井が高く開放感があるものだが、今のカノンにとってはむしろ普通に感じられた。
「あら、カノンちゃん」店長がカノンに声をかける。「なんか、大きくなった?」
カノンは苦笑いを浮かべながら事情を話す。店長は特に驚いた様子もなく、カノンに約束のものを見せた。
「180cmもあると、洋服って結構探さないとないんですよ。なので、この店長さんにはよく協力していただいています」
「みんなも来てねー」店長がカメラに向かって手を振る。そしてカノンは、服の入った小さな袋を手に持った。
「いつもなら試着して色々楽しむんですけど、今はできないので。そもそも入りませんし」
そう言って、カノンは残念そうな笑顔を浮かべた。
昼下がりになってより人通りの増えた繁華街を、カノンはゆっくりと歩いていく。カメラを構える一般人を見るたびに、カノンはその人に向かって優しく手を振った。2階からも、カノンの横顔を狙ってカメラを構える者がいた。そんな人に対しても、カノンは一々手を振って見せた。
「このあとはどうするんですか?」スタッフが尋ねる。
「うーん、いつもならカフェでご飯を食べるんですけど、時間が悪いので帰りたいと思います」
「お腹空かないんですか?」
「えーと、めっちゃ空いてます」眉をハの字して笑うカノン。
「カノンちゃん!」と、地面からの声が、地上300cmのカノンの耳に届く。「これ、食べて!」
渡されたのは、ハンバーガ―10個。カノンは少し戸惑った。女優にとって、カロリー制限は日課だから。しかし、ファンの気持ちをないがしろにはできない。
「ありがとう!」カノンは笑顔でそれを受け取った。
「カノンちゃん、これも!」「これも食べなよ!」あちらこちらから、食料が届けられる。最初は受け取っていたが、カノンは困り果ててこんな提案をした。
「ごめん、私こんなに食べられないから、みんなで一緒に食べましょう!」
そしてカノンら一行は広場のベンチに腰掛けて、一緒に昼食を取り始める。ファンサービスということにして、カノンは心行くまで食事をした。実際、彼女にとって朝食の2人前はとても少なかった。
「みんなありがとうね!」
駅までファンに見送られて、カノンはスタッフとともに再びホームに向かう。行きと同じ光景、目の前にはパイプか看板、窮屈な自動改札。しかしカノンは、来るときには感じていなかった胸の温かさと、今の大きな自分に対する誇りを抱いていた。
「カノンさん、人気ですね」スタッフが優しい笑顔でそんなことを言い出す。
「はい、本当に嬉しいです。私、普段は変装しているので、声を掛けられるなんてめったにないので・・・・・・嬉しくて・・・・・・」
ぽろりと、小さな涙が落ちた。スタッフの前で泣く彼女、普段の格好いいカノンとは似つかないものであるが、カノンは今、幸せをひしひしと感じていた。
家に戻り、買った服を丁寧にクローゼットにしまい、テレビを見たり、広報用のSNSをチェックしたりして、夜が来る。朝起きた時と同じように、巨大パジャマに着替えて床に仰向けになった。
「明日には、元に戻るんですよね」
「はい。今日は1日、お疲れさまでした」
スタッフ一同、頭を下げて、最後にプロデューサーがスポーツドリンクをカノンに手渡した。カノンは体を起こしてそれを受け取り、ごくごくと飲み干す。薬っぽい独特な後味を感じつつ、今日1日を思い出しながら、カノンはスタッフに会釈をした。
「それではごゆっくり」そう言ってスタッフは部屋から出て行った。今日で初めての1人、カノンは1人になって1日を振り返る。心の底からの充実感に浸りながら、カノンは夢の世界へと旅立つのだった。
背中に硬い感触を覚えて、瞼に光を感じて、体にだるさを感じながら、カノンは目を覚ました。
「おはようございます」
小さな声でそう言うスタッフ。ああ、今日が密着だっけと寝ぼけた頭で考えてから、カノンは違和感を覚える。おかしい、企画は昨日だった。なのにどうしてスタッフが自宅にいるのか。ドッキリ企画か?
「あのー」
そしてカノンは、目の映る光景が昨日のそれであることに気が付いた。まさかと思って体を起こすと・・・・・・カノンの頭上すれすれに、天井があった。
「昨日の生放送、好評につき第2段、『500cmの世界』の始まりです! いつも通り、お仕事に行ってください!」
ぽかんと口を開けるカノン。カメラが回っていることに気が付いて何かリアクションを取ろうと努力したものの、彼女は引きつった笑顔しか作ることができなかった。
-FIN
創作メモ
リクエスト作品です、芸能人をモデルにした作品は初めての試みでした。