いつか変わるその日まで
春の暖かな風を感じながら、僕は玄関の前で待機していた。ドアが開く音がしてそちらを振り返ると、新品の中学校の制服に身を包んだ少女、優菜が恥ずかし気にこっそりと、ドアをゆっくり開けながら姿を現した。ぴかぴかの制服はやや大きめに作られているようで、袖は手の半分ほどを覆い、スカートはひざ下よりもずっと長く作られていた。
「おはよう」
僕が挨拶をすると、優菜は猫背をさらに丸めてからにこりと微笑み会釈する。僕はすかさず、彼女の背中に手を添えた。
「猫背、よくないよ」
「あ、そうだね」
途端にすっと彼女の背筋が伸びる。優菜の表情がやや曇るが、仕方がない。たった今背骨をまっすぐにした彼女の頭のてっぺんは、僕よりもやや高い位置にあった。
「やっぱり身長伸びたね」
そう指摘した途端、優菜は背中を丸める。僕はすかさず、再度注意して猫背をやめさせた。
「そういえば今日が身体測定なんだっけ?」
優菜は無言でこくりと頷く。
「たくさん伸びているといいね」小学生だった頃の優菜に向けるような気持で、僕はそう言った。
「いや!」やや大きな声で即座に否定する。「もう、大きくなんてなりたくない……」
眉に皺を寄せて、辛そうな表情で俯きながら優菜はそう言った。背中はまた丸くなっていた。僕はゆっくりと丁寧に、優菜の背中を撫でた。
「健康な証拠だよ。それに、背の高い女性って素敵だと思う」
「いや。私は小さくてかわいい子になりたいの」
「大丈夫。どんなに背が伸びても優菜は十分可愛いから。さあ、猫背を治そうか」
優菜がゆっくり背筋を伸ばす。再び僕よりもやや背が高くなる。
後日、優菜の身長は167.7cmであることがわかった。なお僕の身長は去年から3mmだけ伸びて、165.2cmだった。
僕と優菜は同じ小学校出身だ。といっても歳が5つ離れているので、僕が6年生の時に優菜は1年生として僕の通っていた小学校に入学した。
優菜は昔から背の高い女の子で、1年生の時点で135cmあった。僕の同級生で当時130cmだった男が、小1に抜かされるなんてと驚いていたことを思い出す。
登校班が一緒で、また親同士も気が合ったそうで、僕は度々最高学年として、1年生の優菜の面倒をみるよう母に頼まれることがあった。休日にお互いの家族で出かけることもあった。優菜の長身は親譲りのものらしく、お母さんは177cm、お父さんは190cmもあった。一方僕の両親は普通で、母は150cm、父が170cmだった。
思えばこの時から、将来的に抜かされる日が来ることは予想していたと思う。しかし、僕は優菜という年下の少女を、年下の少女として大事にした。それは僕らの身長差が逆転してからもそうだった。彼女が小学生の時、僕らは毎日登校班の集合場所まで一緒に行っていたが、彼女が中学生になってからも、僕らは毎朝途中まで一緒に通った。
4月には2cmだった身長差はその後も広がり続けた。女子の成長期は小学生まで、と保健の授業で習うものだが、優菜は奥手だったらしい。元々高かった背丈をさらにニョキニョキと伸ばし始めた。月に1,2cmという超ハイペースで成長し、夏休みなんかは1か月で5cmも大きくなったと聞いた。
最初はやや見上げるくらいだった僕らの身長差は、夏には歩道の段差1つでも足りないくらいになり、秋には優菜の視点から僕の頭頂部が、つま先立ちなどせずとも普通に覗けるようになり、1年が経過する頃には、僕は彼女の顎の下に入ってしまうくらいになっていた。
立って話をする時、僕は彼女を大きく見上げる必要があって、優菜はその度に背中を丸めて僕に目線を合わせようとしてくれた。最初のうちは注意していたが、ある時優菜に「小さく見せたいんじゃなくて、声が聞こえにくいからやっているの……」と言われてからは何も言えなくなってしまった。
中学校に入学して最初の2か月ほどで、優菜の背丈は170cmを突破した。夏休みを明ける頃には180cmに突入し、2年生になろうとする頃には190cm近くになっていた。何度か病気を疑われて病院を受診したそうだが、優菜は至って健康体であり、それ故に特に関節などへの異常もなくスクスクと背を伸ばしているらしい。それを聞いたとき僕は心の底から安堵した。と同時に、そうであるのならお父さんの背丈である190cmほどで止まるのだろうと考え、成長期の終わりが近いことを確信して嬉しくなった。
実際のところ、僕もこれ以上優菜が大きくなることを恐れていた。それはまず第一に、優菜自身が自分の長身を嫌がっているということ。その次に、僕が優菜と一緒に歩いていると人々の嘲笑を買ってしまい、それが僕らを苦しめることであった。どちらも、僕が彼女を励ませば良い話であるが、そう簡単に解決する問題ではなかった。
優菜が進学を控える頃。それは同時に僕が高校卒業と大学入学を控える頃でもある。2つの祝い事を兼ねて、僕らは家族ぐるみでパーティを開いた。寿司や中華などを食べて、大人たちは酒を飲んで騒いでいた。
騒ぎがピークに達したころ、優菜が僕の肩をとんと叩き、体を小さくして僕の耳もとに唇を添えて「後で上に来て」とだけ言って席を立った。優菜が席を離れても酔っ払いたちは特に何も思わず、別の話で盛り上がっていた。僕は優菜が離席した1分後くらいに僕もトイレに行く振りをして優菜の部屋に向かった。
ノックをすると、ドアの向こうから小さな声で「いいよ」と言われて、僕はゆっくりとドアを開けた。緊張で手が震えるのを感じた。過去に何度も入ったことのある部屋であったが、思春期の男女が同室するとなると、それは当然特別な意味を持つようになるのだ。
下の大人たちに感付かれないように、また優菜に嫌な気持ちをさせないように、僕はゆっくりとドアを開けた。私服姿の優菜がベッドに座って、長い脚を斜めにして、僕の方に体を向けていた。ベッドに腰かけた優菜は背筋をピンと伸ばしており、細くすらっとした優菜のスタイルの良さが強調されていた。
僕は自然と、吸い込まれるように優菜の隣に座った。座った状態では額半分ほど優菜の方が背が高い。その分、優菜の脚が長いことを、僕はその時初めて知った。
しばらく雑談をしてから、優菜がベッドで横になり、それに続いて僕もその隣に並ぶ。ベッドの上では僕らの身長差はなくなり、目の前に彼女の顔があって、少し照れ臭い気持ちになる。それは優菜も同じらしくて、顔全体が妙に赤くなっているように見えた。
「目線が一緒になるの、去年ぶりかな」
話を振ってみると、優菜は小さく頷いてから小声で「でも……」と言い、僕の手を握る。優菜の手は僕のよりも一回り大きく、握りしめているのになんとなく包み込まれているような感じだ。
「やっぱり私、デカいよね」
「うん」僕は正直に首を縦に振る。優菜はシュンとするが、すかさず右腕で彼女を抱きしめた。
「でもそんなの関係ない。どんなに大きくても、優菜はかわいいから」
腕を回したとき、僕は優菜の大きさに少し驚いた。昔は自分よりも小さかったわけだし、また遠目には細身の彼女である。しかし身長相応に横幅も大きくなっていたのだと、僕はその時初めて気が付いた。しかしその驚きを優菜に悟られないよう僕は平静を装うよう努めた。
「かわいいって…私、190cmもあるんだよ」
「身長なんて関係ないよ。優菜はかわいい。これは僕の意見。以上!」
そしてそっと頭を撫でる。頭の大きさに対しても先と同様の戸惑いを覚えたが、僕は感情を殺して優菜をかわいがることに集中する。頭を撫でる手が1往復するたびに、優菜の口角が上がっていくような気がして、僕は嬉しくなった。
「ねえ、約束してくれる?」
「何を?」
優菜はバッと体を起こし、僕に覆いかぶさるような形で、真剣な表情で僕の目を見る。僕はその圧力にやや戸惑うが、冷静に、キョトンとして見せた。
「私がどんなに大きくなっても、好きでいてくれますか?」
……一瞬、返事ができなかった。それは決して、僕の心に迷いがあったわけではなく、その答えがあまりに当たり前のものだったからである。
「もちろん!」僕はきっぱりと答えた。途端に優菜の顔が赤くなって、涙が僕の鼻にポタンと落ちた。
*
大学では高校のように全員が朝から夕方まで同じ授業を受けるということはなくなった。登校も下校も(大学でこんな言い方はしないけれど)バラバラなので、優菜と毎日顔を合わせるということは必然的になくなった。
それでも僕らは数週間に1度くらいのペースで会った。なぜなら、僕らはそういう関係になっていたからだ。高校生ならともかく中学生に手を出すなんて、と非難をされることもあるが、こういう形の関係もある時はあるとしか言えないと思う。決して僕は、彼女が中学生だからでも、また身長が高いから好きになったわけではなく、自然にそうなっただけなのだ。
中学2年生の身体測定では、190.8cmだったらしい。お父さんより1センチ近く大きくなっちゃったと嘆いていたが、以前よりかは心に余裕のある感じだった。
しかし優菜の成長期はまだ終わっていない。むしろ本格化したような気さえするのである。一体どこまで大きくなるのやら……しかし僕は優菜がどれほど成長しようとも、彼女を幼馴染の少女として、また今の彼女として愛してみせるつもりだ。
9月のとある休日、僕らは駅前で待ち合わせた。パンツにTシャツ、上から春物ジャケットと、大学生っぽい服装をして待って本を読んでいた。周囲の人の視線が一方向に動くのを察して、僕も顔を上げてそちらを向く。恥ずかしげな微笑を浮かべた彼女が僕を大きく見下ろしていた。
「すみません! 待ちましたか?」
その質問に、僕は首を大きく傾けながら、首を振って答える。いつの間にか、昔に比べて彼女はよそよそしく、控えめになった。しかしその分、大人びて余裕があるようになった気がする。服装も、何年か前まではダボっとしたTシャツと短いスカートばかりだったのに、今日は白シャツに薄いピンク色の肩紐スカートと、おしゃれで大人っぽい。事情を知らなければ中学生とは到底信じられない。
「全然! それじゃあ、行こうか」
僕のヘソくらいの高さにある彼女の大きな手をそっと握りしめて、手を引いて駅に入っていった。……心なしかまた大きくなった気がするが、それはきっと事実なのだろう。
女の子の手を引いて駅に向かう……文章で書いてしまうと一見、子供の手を引く大人のようであり、それは確かに間違いではないのだが、僕らの身長差は40cmもある。ホームで並んだ時に、自分の頭上に置いた手をスライドさせて背比べしてみると、今となっては、僕は優菜の肩よりも背が低いようだ。
「また身長伸びた?」尋ねてみると、優菜は口元を大きな手で覆いながら小さい声で「うん……」と言った。
「何センチだった?」すかさず僕は尋ねる。コンプレックスを抱えた子にこういうことを尋ねるのはNGと思われるかもしれない。しかし、優菜はきっともう少しで克服できると思う。だから僕は最近、変に話題を避けるよりも率直に尋ねるようにしている。どのみち、僕一人が配慮しても、周囲のあらゆる誰かに聞かれてしまうことは明白なのだから、早めに慣れさせるべきだと僕は考えたのだ。
「えーと、1週間くらい前に測って、204.7cmでした」
「てことは、5か月で14cmも伸びたの?」この成長には、僕もさすがに驚く・
「そういうことになります……ね……。ホント、嫌になるくらい伸びます。お父さんが日に日に小さくなっていくんです。4月は同じくらいだったのに、どんどん私の背が伸びていって、今では頭のてっぺんが見えちゃっています――」
そのタイミングで電車が到着し、僕らは乗り込む準備を始めた。僕が先に乗って、後から優菜が乗り込む。車内から優菜の表情は見えず、やがてお辞儀をするように腰と背中を曲げて、小さなトンネルを通るように電車のドアをくぐった。
車内でざわめきが起こる。優菜は頬をやや赤らめるが、慣れた調子で吊革やその支柱をかわし、車内に落ち着いた。休日ということもあって車内はやや混んでおり、席は全て埋まっていて、僕らは立って雑談を始めた。
駅に到着して人が出入りするたびに、優菜の長身に驚いて声を漏らす人がいる。中には「女? 女装じゃねえの? にしてもデカすぎだろ」なんて風な失礼なものもあるが、優菜は一々気にしていられないという風に、そういう人間を無視して僕と話を続けた。
吊革の支柱よりも背の高い優菜を見上げながら、僕は彼女の顔を見て話を続ける。首が痛くなる。しかし僕は耐える。優菜の楽し気な笑顔を見えるだけで、痛みが引いていくような気がしたのだ。
20分ほど電車に揺られて、降車駅に到着した。繁華街の駅なのでホームで待機している人も多く、その誰もが優菜に驚愕の表情を向けていた。
そんな中を優菜は、乗車時と同じようにドアをくぐるようにして抜けていった。さーっと人々が優菜のために道を空け、優菜は会釈をしながら通る。
大きな背中だ……僕は車内から彼女の後ろ姿を見て思った。しかし一方で、中学生相応の幼い後ろ姿だと思った。思春期の彼女はこれからも心身ともに『成長』していくのだろう。それに伴って僕らの関係も変わっていくのだろうか……できれば変わってほしくないと、僕は自分勝手に思ってしまう。しかし一方で、それが優菜の幸せなのなら、そうなってほしいと心から思うのであった。
電車を降り切った優菜がホームで屈みこみ、車内の僕を見て首を傾げている。僕はハッとして急いで電車を降りて彼女の下へ駆け寄った。40cm差の僕らは再び並んで改札を目指した。僕の目線にはちょうど彼女の胸があって、並んでいるとどうしても横目に映ってしまう。わずかなふくらみが優菜の性徴期を主張していた。
それから目線をそらしながら、僕はあくまで『誠実な年上彼氏』として優菜をエスコートするのだった。
-FIN
創作メモ
読者の方が求めている作品はどんなものだろうと思い、ある時Fantiaでアンケートを取ってみました。すると、「背の高い少女がさらに成長する話」や「優しい女の子が成長して立場が逆転しても優しいままでいるほのぼのした話」が好きだと分かりました。その結果を踏まえて歳の差・逆身長差・コンプレックスを描いた話を書いてみました。コンプレックスを描くといつも暗く真面目になってしまったのですが、今回は真面目すぎない、適当な塩梅に出来たと自負しております。