宮本春香の話

 中学校を卒業して1週間が経ちました。私は今、新幹線に乗っています。目的地は友一郎さんの伯父様の御実家です。
 最寄り駅に着きましたので、私は畳んでいたキャリーバッグの取っ手を最大まで伸ばして引きずりながら中腰で新幹線から降ります。新幹線の天井の高さは普通の電車と同じく、200cmから220cmしかないから頭に気を付けるようにと両親に言われたことを思い出します。乗った時も同じことを思いましたが、やっぱり公共交通機関は苦手です。だって、私くらい背の高い人のことは考えられていないのですから。
 ドアをくぐってホームに出て、他の人に邪魔にならないように少し歩いてから、私は背筋を思い切り伸ばします。とは言っても、腕を天井に向かって伸ばして、なんてはしたないことは致しません。つま先立ちして、少しだけ胸を逸らす。それだけです。
 私の膝上くらいしかない低さ70cmの改札を通るため、優雅にしゃがみこんでパスモをタッチして、すっと立ち上がって通り抜けます。250cmという身長で、普通の人のように優雅に振舞うのは難しいのですが、私は色々考えながらなんとかやっています。
 改札を抜けたところで、大きく手を振る男性を見かけて私はにこやかに微笑みます。……思い切りそこまで走っていって、彼をぎゅっと抱きしめたい気持ちが一瞬出てきましたが、私はすぐに冷静になります。私の大きな体では危険ですし、なにより優雅ではありません。私は自分をぐっと抑えてそうします。大丈夫です、この1年間、今日のためにそういう訓練をしてきましたのですから。これ以上彼の前で以前のようなはしたない真似をすることはございません。
「ハルちゃん、久しぶり! 元気だった?」
 友一郎さんがにこやかに話しかけてくれます。周りの人は私を見て驚いて、色々な感情のこもった言葉を吐いておりますが、私はそれらを優雅にスルーして友一郎さんとその隣の伯父様を交互に見つめて、控えめに笑顔を浮かべます。
「お久しぶりです、友一郎さん、伯父様」
「そんなに堅くならんでいいよ! これからは一緒に暮らすんやから。じゃあ、ワゴンに乗ろうか」
「はい」
 伯父様について、大きな車に乗ります。堅くならないでと言われても、どうしても緊張してしまうみたいです。……なんでしょう、この変な感じは。まるで自分を空から見ているみたいに、私は現実感のない目の前の出来事に自分を合わせて振舞っています。
 ワゴン車を見下ろして、以前もそうしたように、私は思い切り体を折りたたんで車内に入り、椅子に座ります。2人座れるはずのシートを1人で占領して、斜めに座ることで脚を収めます。
「ハルちゃん、座れた?」
「はい。大丈夫です」
「じゃ、出発しよかー!」
 友一郎さんは私の後ろに座りました。もしも私がもう少し小さかったら、隣に座っていたのかもしれないと思うとこの体を恨んでしまいます。しかし、私がここまで大きくなったのは他でもなく友一郎さんがそれを望んだからであり、私の特異体質がそれを可能にしたのです。私はとても幸せ者だと思います。しかし……この幸せを、素直に受け止めきれない自分もいます。何なのでしょう、この気持ちは……いや! わがまま言うのはやめましょう。私は幸せです。不安はたくさんあるけれど、今は、今を楽しみます!
 横向きに座って友一郎さんの方を向いて、私は彼に微笑みかけます。
「楽しみですね!」
 思わず大きな声が出てしまいました。これは、はしたない行為だったでしょうか……しかし友一郎さんは、笑顔で返してくれました。彼が喜んでくれたのなら、きっとこれは失敗ではないと思います。
 新幹線の駅から離れていくにつれて、建物は少なくなり、畑が広がります。前も見た光景ですが、いま見ても新鮮な気持ちになります。外の景色を見ながら、私は友一郎さんと今後のことについてゆっくりとお話ししました。仕事のこととか、そして……今後の交際のこととか。大切なことだと思いますが、そういう話はあまり得意ではないので、複雑な気持ちになってしまいます。
 友一郎さんの伯父様の実家に到着し、お部屋に案内されるとそこには私の荷物が入った段ボールがすでに積まれていました。今日からここで暮らすのです……友一郎さんと、一つ屋根の下で一緒に暮らすのです。それを再確認して、私の心臓がドクンドクンと波打つ気がします。こらっ! 大人しくしなさい! 叱責すると、ピタリと止まってくれました。全く、困った心臓です!
 居間で少しばかりお茶をたしなみながら、私はお二人と少々雑談をしました。伯父様のお家は木造りの民家で、天井は私の身長よりも少しばかり低くて、実家でそうしていたように、私だけ床に正座してテーブルを使います。
 しばらくそうしてから私は友一郎さんに、伯父様の畑を案内してもらうため、外に出ました。外に出た時、私は思わず腕を思い切り空に向かって、思い切り背伸びをして伸びをしてしまいました。体がぶるぶると震えて、痛かった背中や関節が伸びていくのを感じました。その直後、はっとして、私の胸の高さにある友一郎さんのお顔を見ると、そこにはいつもの優し気な微笑があり、私を見上げていました。それを見て、私は思わず赤面してしまいました。やってしまいました、油断するとすぐに気が抜けてしまいます。私は直ちに『お嬢様』に戻って、友一郎さんにお辞儀をします。
「では、宜しくお願い致します」
「ふふ。まあ、そんなに畏まらないでね」
 そう言って彼は私の背中をさすり、手を取ります。私の指と指の間に彼の小さな指が入り、ぎゅっと私の手を握ります。これはウワサの恋人繋ぎというやつでしょうか。顔がさっきよりも熱くなるのが自分でもわかります。友一郎さんのお顔も赤くなっているのに気が付いて、さらに胸がワーッと嬉しくなっていきました!
 手を繋ぎながら私は畑を歩いて、友一郎さんから栽培している植物やその管理方法について教わります。また同時に、友一郎さんのお母様がヤタケというこの辺りでは地位が高いお家の方だという話も聞きました。
 私の地元では見られなかった光景を新鮮に感じながら、私は好奇心旺盛に友一郎さんのお話を聞いていました。……しかしある時ふっと、彼の声が聞こえなくなって、私は辺りを見渡しました。友一郎さんは黙ったまま、遠くを見つめていました。
「あの……どうかしましたか?」
 彼の真剣な表情を見て、尋ねてよいかわかりませんでした。しかし次の瞬間には、私は尋ねていました。自分でもどうしてそうしようと思ったのかわかりません。別に、急いでいるわけじゃないのに。
「ん? ああ、ごめん! 大丈夫だよ。ちょっと気を取られていただけで」
 彼は愛想笑いを浮かべ、後頭部をさすりながらそう答えました。私は反射的に、友一郎さんの見ていた方に目を向けます。疑いたくないのですが、やっぱり気になってしまいます。……そこには、1人の女の子がいました。遠目では普通の女の子なのですが、果物を摘むのに脚立とかを使わず、地面に立った状態で腰を曲げて採取しています。……私にはわかります、彼女は私と同じくらいに背が高い! 自分だけが抜けた集合写真とかを見ている内に、いつからか、遠近感が変になるボーダーが何となく分かるようになったのです。そしてきっと、友一郎さんもそれに気が付いているのです……
「あ、あの。私、あの子に話しかけてきます!」
「え? いや、別にいいよ! あっちは高野さんの農場だし、向こうも迷惑だと思うし……」
 友一郎さんの返事を待たずに私は小走りで女の子に向かいます。冷静にしようという考えが頭をかすりましたが、体がそれを無視して駆けだしました。
 いつの間にか小走りではなく普通に走っていて、女の子も向かってくる私に気が付いて、ぎょっとした表情を浮かべます。それは私も同じです。女の子に近づいていくにつれて、私が心から恐れていたある事実が明確になっていったのです。
 その子は、私よりも背の高い女の子だったのです……
「こんにちは。どうかしましたか? ……あの、身長高いですね! 梨緒ちゃんより高い! 八尺の人ですか? 何センチあるんですか?」
 女の子は目を輝かせながら質問を浴びせてきます。『身長高いですね』というセリフが胸に刺さり、悔しくなりました。女の子を見上げながら、私は何も言えなくなってしまいました……
「あ、ごめんなさい。急に馴れ馴れしいですよね。……あの、大丈夫ですか、あ、すみません、自己紹介しますね。私は前山智子って言います。高野農場でスタッフをやっています。もう少しで16歳です。この前中学校を卒業したばかりです。あ、身長は270cmです。しばらく測っていないんですけど、多分変わっていません」
 彼女の……智子の自己紹介を聞いて、まず同い年であることに驚きました。その次に私よりも20cmも背が高いことに驚いて、同時に嫉妬しました。最後に、さっき友一郎さんが『高野』という名字を口にしたことを思い出して、はっと後ろを振り返ります。息を軽く切らせた友一郎さんがちょうど私に追いついたところのようでした。
「ハルちゃん、急にどうしたの? あと、キミは高野さんの関係者?」
「はい! 高野優希さんの所で3月くらいから働いています。中学校を卒業したばかりですが、よろしくお願いします!」
「ああ、そうなんだ。じゃあハルちゃんと同じだね!」
 友一郎さんが私の方を見てくれたので、私はコクコクと首を縦に振りました。
「僕は鶴田友一郎、母が八尺家の女性で、その関係で父方の伯父がこの土地で農家を初めて、僕もそこで働いているんだ。あ、この子は宮本春香さん。僕の彼女です。これからお隣同士、色々とお世話になると思うけど、よろしくね!」
「はい! こちらこそ、お願いします」
 友一郎さんが頭を下げてから、智子はニコニコと子供っぽい笑顔を浮かべながら、友一郎さんに深々とお辞儀をします。私も友一郎さんに倣って、彼女にお辞儀をしました。……胸がどきどきしました。友一郎さんの表情を見るのが怖くて仕方がありませんでした。
 プルルルル――友一郎さんのスマホが鳴ります。誰かに呼び出されたのか、困った表情で電話に対応していました。私は彼の目をじーっと見つめました。何度か私をちらりと見てくれましたが、それだけでした。電話が終わって、しばらく頭を抱えてから、友一郎さんは智子を見上げてハッとして、目を輝かせながら顔の前で手を合わせました。
「智子ちゃん! 悪いけど、ハルちゃんに今やっている農作業を教えてくれないかな? 多分、桃の手入れだよね?」
「はい! でも、私もこの前優希さんに教わったばかりで初心者ですけど、大丈夫ですか?」
「全然大丈夫! ハルちゃんなんて、桃の木なんて触ったこともないと思うし! まあとりあえず俺はちょっと家に戻るから。ハルちゃん、ごめんね。すぐ戻るから! じゃあ智子ちゃん、よろしくね!」
 友一郎さんは智子に手を振りながら小走りで戻っていきます。私は常に友一郎さんの目をじーっと見つめていたのですが、友一郎さんは最後に私を一瞬だけちらと見て、それ以外は智子をきらきらした瞳で見上げて、私の前から去っていきました。
 私の中の何かがピシリと音を立てたような気がしました――

 残された私たちは互いに顔を見合わせます。私は智子を見上げて、智子は私を見下ろして……。しばらく気まずい沈黙が流れて、最初に口を開けたのは智子でした。
「えーと……宮本春香さん、お願いします。あの、八尺の人だったんですね。失礼しました」
「いえ、別に……」気まずそうに頭を下げる彼女を、私はそう言って励まします。……仲良くしたい、という気持ちが出てきました。同い年で、高校に通っていなくて、身長が凄く高くて、農業をやっている人と友達になれることなんてそうそうないと思います。……でも、彼女の身長が私より高いというそれだけで、智子を敵と感じてしまいます。だって私の取り柄は身長しかないんですから!
 ……ダメです、こんな黒い感情をむき出しにするなんて、全くお嬢様らしくありません。でも、我慢できない……
「あの、大丈夫ですか? なんか苦しそうですけど、疲れましたか? 休みましょうか?」
 少し屈んで、私と目線を合わせて尋ねてきます。その態度が私の感情を逆なでします。
「ううん、大丈夫。それで、私に何を教えてくれるっていうの?」
 同い年で、しかもこれから農作業を教えてくれる子に対して、私はなんて態度を取ってしまったのでしょうか! 智子は表情を硬くして、背中を丸めて謝ってくれました。……申し訳ないという気持ちが出てくる一方で、私の表情はキツイままです。
「えーと……じゃあ、今やっている作業を一緒にやりましょう! 甘い実をつけるために蕾を摘むんです。葉っぱの赤ちゃんは取らないように、蕾の赤ちゃんだけを取り除くんです! 見ててください――」
 智子に教えられながら、一緒に農作業をします。この農場は見たところ私たちのよりも大きくて、たくさんの木が植えられています。私たちは黙々と作業をしました。時々智子に質問すると、彼女は丁寧に優しく教えてくれました。さっきまであんな態度だった私に、無邪気な笑顔を浮かべながら楽しそうに教えてくれる彼女を見ている内に、私の黒い感情がすうっとなくなっていき、気が付けば私たちはタメ口で、お互い『ちゃん付け』して、一緒に農作業を楽しんでいました。
「そういえばさ、さっきの男の人って、春香ちゃんの彼氏さんなんだよね?」
 しかし、ある時に不意に発された智子ちゃんのその一言で、私は最初の頃の感情を思い出しました。……私は無理に笑顔を作って、「うん!」と答えました。智子はパッと顔を輝かせました。
「彼氏かー、いいなー。ねえ、どこで出会ったの? どっちから告白したの? 付き合ってどれくらい経ったの?」
「なんでそんなこと気になるの?」張り付いた笑顔のまま、そんな台詞が口をついて出てきます。彼女はハッとした表情を浮かべてから、ペコペコと頭を下げました。
「ごめん、急に聞きすぎちゃって……あのね、私には好きな人がいるんだけど、好き好きアピールしているのに全然相手にされなくて。それで、春香ちゃんの恋が気になっちゃって」
「あ、そうなんだ……」私は一瞬、智子ちゃんに対して申し訳ない気持ちが出てきました。片想いしている時の辛さは、私にもよくわかります。
 しかし次の瞬間にはまた例の『盗られるかもしれない』という恐怖が私を襲うのでした。そしてその次に、片想いしていた頃を思い出して、急に悲しくなってきました。あの頃は楽しかった……なんてことを思ってしまいます。今も楽しいはずなのに、そう思ってしまいます。
「ちなみに、それってどういう人?」
 私は智子ちゃんをじっと見つめて尋ねます。そうでもしていないと、なんだか頭が暴走してしまう気がしたのです。「もしかして、友一郎さん……さっきの男性みたいな感じ?」
「へ?」きょとんとして、私を見下ろします。その瞬間、私の中の黒い感情がすっと消えました。そして、別の種類の不安がわっと湧き上がってきました。
「あー、全然違うよ。うん、むしろ全く逆のタイプかも。背が低くて、あまり笑わなくて、大人しくて、すごく真面目で。……でも、優しくて、私が不登校の時も色々お世話になって……」
 智子ちゃんはそこで黙り込んで、虚空を見つめます。作業の手も止めて、目を瞑って何かを考えこんでから、また目を開いて青空を見上げました。
「うん……色々あったなあ。本当に、優希さんにはお世話になったなあ。最初は小さい男の子として可愛がっていたのに、いつの間にか頼れるお兄さんって感じになって、今は……手放したくない人。幸せになってほしい人って感じかな?」
 悲しそうな表情を浮かべながら智子ちゃんは語ります。私は彼女の話を聞くのに夢中になって、さっきの不安を一瞬忘れてました。……過去を語る彼女の姿は、とても同い年とは思えないほどに大人びていて、美しく見えました。さっきまで智子ちゃんのことを年下の子のように、同い年だけ幼い女の子のように思っていたのに、今は全く違う彼女がそこに立っているのです。
 そして私はハッとしました……。急に、自分が恥ずかしくなりました。お嬢様か、はしたないとか言っていた私はなんて幼稚だったことでしょうか。
 『幸せになってほしい人』……彼女はさっきそう言いました。私は、好きな人をそんな風に考えたことなんて、一度もありませんでした。そんな、私の自分勝手さを反省すると同時に、私はある、恐ろしい疑問を抱いてしまいました。
 ……友一郎さんは、私の幸せを願ってくれているのでしょうか? それとも、ただ都合の良い女として、私を連れてきただけなのでしょうか…………? 友一郎さんは、私が好きなのでしょうか? それとも背の高い女の子が好きなのでしょうか? 背が高ければ、私じゃなくても良いのでしょうか? 私たちは本当に、両想いなのでしょうか? 友一郎さんに好きな人はいないのでしょうか?
 疑問が次々と湧いては蓄積されて、頭と胸がいっぱいになって、息をするのさえ苦しくなってしまいました……

 その後、智子ちゃんは私に色々なことを教えてくれました。農作業については有機肥料と化成肥料の違いとか、果樹の手入れの仕方とその時期とかを教えてくれました。また情事については、智子ちゃんが片想いしている『優希さん』というのが元々家庭教師の先生だったこととか、中学生の時に不登校になってお世話になったこととか、その関係で就職先として高野家のスタッフを紹介されたとか、そもそも高野家というのが友一郎さんの親戚の八尺家と協力関係にあることとか、優希さんを心から尊敬していて大好きであることとか、色んな話を教えてくれました。深刻な話もあれば、面白い話もありました。
 そして智子ちゃんが一通り話した後で、私は思い切って、気になったことを全部尋ねてみました。最初に聞いた時から不思議に思っていて、しかし中々聞くタイミングを見つけられなかったことです。
「ねえ、最初に言っていたさ、優希さんを『小さい男の子として可愛がっていた』ってどういうこと? 優希さんは私たちより6歳も年上なんでしょ」
 私が聞いた途端に智子ちゃんはパッと顔を赤くして顔を覆います。その様子は、私が一番最初に彼女に出会った時に抱いた、ウブな印象そのままでした。
「あのー……私は、弟が欲しかったの」開口一番の台詞に、私の頭に疑問符が浮かびました。「でも私は一人っ子で、あるとき弟を『探していた』の。そしたら電車に小さいかわいい男の子がいて、声をかけて……そしたら当時は大学生だった優希さんで……後日、家庭教師として私の家に来て……まあ、そんな感じ!」
 覆ったいた手がまくられたその向こうには、今にも火花が吹き出そうなほどに真っ赤になった彼女のお顔がありました。私はそれを見て吹き出しそうになりましたが、どうにか堪えました。
「ふーん……でも、優希さんって凄く良い人なんだろうね。仕事も紹介してくれたし、智子ちゃんが大変だった時にとことん慰めてくれたんでしょ」
 胸がチクリとしました。友一郎さんは、お仕事は紹介してくれたけど、別に私を助けてくれたというよりは元々は向こうから誘ってきたことが早回しになっただけです。私が受験で悩んでいた時、友一郎さんが心配してくれたことはありませんでした。逆の時は、私は彼のことをずっと心配していたのに……
 智子ちゃんは目を輝かせながら、腰を曲げて私の目の前に顔を持ってきます。私は少し驚いて、思わず半歩ほど後ずさってしまいました。
「うん! すっごく良い人なの! 優希さんがいたから私は今の私があると思うし、生きてこられたと思うの。……優希さんが、私の生きる希望だったの。でも……」
「でも、何かあったの?」うっすらと涙を浮かべる彼女に、私は遠慮せず質問します。智子ちゃんには少し申し訳ないような気がしましたが、私にとっても凄く大事な問題に思えたので、考える前に口が動いてしまいました。
「でも……私にとって優希さんは太陽みたいな唯一の存在でも、優希さんにとって私は、1人の子供に過ぎないのかもしれないって思うの。ただの高野農場のスタッフの1人にに過ぎないのかもしれないって時々思うの」
「それはどうして?」胸の痛みを感じながら、私は問い続けます。
「なんていうか、優希さんは誰にでも優しいから私にも優しいだけなのかなって思っちゃったの。別に私だけが特別じゃないんだって気がして、それで」
「じゃあ、特別になればいいじゃん!」そんな言葉が反射的に飛び出しました。智子ちゃんがぎょっとしましたが、私の口は勝手に動き出します。
「智子ちゃん、もっと積極的にならなきゃ! 私の彼氏の友一郎さんも、イケメンで、色々な女の子から好かれていたけど、私は頑張って身長伸ばして、友一郎さんの彼女になったんだから……」
 口がひとりでに智子ちゃんに力説している一方で、私の心は別のことを考えていました。私は本当に……友一郎さんが……好き、なのでしょうか?――

 私たちはそれからずっと、お互いの恋について語り合いました。私の場合は、友一郎さんに一目ぼれして、付き合って、それからずっと彼を盲目的に好いていました。一方で智子ちゃんは優希さんを『尊敬』しているというのです。私にとって尊敬とは、例えば偉大な先生とか、歴史上の人に対して使うものだと思っていました。そして……智子ちゃんは、優希さんが幸せになれるのなら自分が彼女になれなくてもいいと言ったのです! そしたら智子ちゃん自身の幸せは、生きる意味はどうするのかと聞いてみたのですが、優希さんの幸せが智子ちゃんの幸せで、自分が優希さんを不幸にするくらいなら自分は消えてしまう方が良いというのです。
 ああ、意味わかんない!! ……私はそれからも智子ちゃんに色々と聞いてみましたが、話は平行線で、全く結論が出ませんでした。私と彼女はもしかしたら全く違う星に住んでいるかもしれないということで、とりあえずお互いに出し合ったアドバイスをまとめることにしました。
「とりあえず、智子ちゃんはもっと優希さんに積極的になること! 言葉で言って、態度で示さないと通じないことだってたくさんあるんだからね!」
 胸をドキドキさせながら、私は強い口調で智子ちゃんに言います。正しいことを言っているつもりなのに、どうしてこんなにドキドキするのでしょうか……。
 彼女は私の目をまっすぐ見つめながらコクコクコクと首を縦に振ります。
「うん、うん、うん! それで春香ちゃんは……私が言えることじゃないと思うけど、もう少し今の関係について考えてみてもいいんじゃないかな。だって、彼女ってことはさ、その内結婚するんでしょ?」
「そ、それはまた別の話だと思うけど……うん、ちょっとゆっくり考えてみる。……智子ちゃんと話せてよかった。やっぱり、他の人の意見ってすごく大事だね! 私のママとパパは、個人の自由だって言って何も言ってくれなかったし、それが当たり前だと思っていたけど……」
 その時遠くから「おーい」という声が聞こえました。……よく聞き慣れた声でした。しかし、それを聞いた時の印象は、つい数時間前とは大きく違っていました。
「ハルちゃん、お待たせ! いやー、伯父さん達に色々説明したり書類書いたりしなきゃいけないの忘れてたよ。全く、これだからジジババは困るよ!」
「お、お疲れ様です……」
 彼はいつもの素敵な笑顔を浮かべながら首の後ろを撫でています。見慣れた笑顔、何度も見た仕草ですが……なんだか、違和感があります。
「あ、智子ちゃんもありがとう! 色々教えてくれたんだよね?」
「はい! 果樹の摘蕾の仕方とか、作物の肥料の話とかしました。私も初心者なのであまり教えられることはなかったんですけど、言われた通りやったつもりです」
「上出来だよ! ハルちゃんなんてド素人なんだしさ。アッハッハ!」
 私は愛想笑いを浮かべながら、心がチクチクとするのを感じます。あれ……友一郎さんって、こんな人だったっけ……?
「智子ちゃん、今日は本当にありがとう!」彼は智子ちゃんに対して、深々と頭を下げます。智子ちゃんもそれに倣いました。「えーと……じゃあハルちゃん、帰ろうか」
 友一郎さんがいつもの笑顔で差し出した手を、私は握ります。小さな手を、私はぎゅっと握りました。……さっきまではこれだけで胸が高鳴ったのに、今は不思議と何も感じません。……いや、もしかしたら最初から感じていなかった気もしてきます。今日、私は何回彼にときめいたでしょうか?
 ……えー、私はちょっと壊れちゃったようです……今日は早く寝て、頭を冷やしたいと思います。
「うわー、気づいたらもう日が暮れそうだね。もう少しで夕日が見えるよ。ハルちゃん前来た時、夕日がきれいって感動していたよね」
「あ、はい」間の抜けた返事をしてしまいました。私は友一郎さんの話を聞きながら、心の半分以上は別のことを考えていたのです。友一郎さんは私の心ここにあらずな返事を聞いて、眉をひそめました。
「なんか元気ないね? どうかしたの?」
「いえ、特に……」あなたについて考えて、なんて言える訳ありません。だってそれは決して、以前の私のように、彼への想いが溢れて綴られた愛のメッセージではなくて、むしろ全くの逆なのですから……
「ふーん。それより、今日の夕飯はなんだろうなあ。ハルちゃんが来たんだから、きっと豪華だよ! あー、楽しみ!」
 友一郎さんは話題を変えて、いつもの呑気な笑顔で胸を張って後頭部で両手を組んで、遠くの方に見える家を見つめています。
 そんな彼の頭頂部を私は見下ろしています。お互いの視線が交差することはなく、私は彼を見つめ、彼は家を見つめています。
 ふっと、友一郎さんの目が大きく開きました。そして輝きだしました。それは懐かしい瞳でした。……私と彼が恋人になったばかりの時、彼が私に向けてくれた瞳でした。それに気が付いて、私は背筋がぞっとするのを感じながら、彼が見ている方を振り返ります。そこに居たのは、口をぽかんと開けて私と友一郎さんを交互に見つめる、私より年上っぽい、友一郎さんと同い年くらいの女の子でした。……友一郎さんが彼女を見ていた理由がわかりました。
 そして同時に、なんだか訳の分からない感情がウワーっと湧いてきました!
 その人は、私よりも頭一つ背の低い、220cmくらいの、背の高い女の子だったのです――