宮本紗也の話

 昨日出会った彼が忘れられない――
 名前は鶴田友一郎。伯父さんの農場で農家をやっているらしく、宮本春香という彼女がいる。春香は、220cmの私よりも頭1つくらい大きくて、最初見た時はとても驚いたけれど、いま思い返すとなんだか地味で弱そうな女の子だった。
 彼の身長は昇さんと同じくらいだから、190センチくらい? ガタイが良くて爽やかなイケメンで、笑顔が素敵で、昇さんと違って静かで落ち着いた感じで……。昨日の夕方散歩をしていたら、偶然彼と出会って、私は一目見た瞬間ハートに矢が刺さるような衝撃を受けて惚れてしまった! 少しだけ話したけど、話も面白くて気が合いそうで、さらに好きになっちゃった!
 あー、また会いたいなあ。八尺家の関係者みたいなこと言っていたし、綾子先輩の縁とかで、また会えるといいなー。まあ、あと4日くらいしかこの町にはいられないんだけど。……なんて考えながら窓から身を乗り出して田舎の景色を眺めていたら、なんと鶴田くんが玄関の前でふらふらしていた! 何、この奇跡! 私は考えるよりも先に体が動きだして、部屋から飛び出て、玄関から飛び出て、手を振りながら笑顔で彼に挨拶した。
「やっほー! 昨日の夕方ぶりだね!」
 私が上から声をかけると、彼はびくりとしてから、目を輝かせて笑顔を返してくれた。その反応が、とても嬉しかった。そして黒い感情が私の胸を徐々に覆っていくのが分かった。
「あー、うん。また会ったね。てか、紗也ちゃん居たんだ」
「うん! 本当は先輩と観光する予定だっただけど、なんとなく気が乗らなくて、宿に残ることにしたんだー」
「え、それは大丈夫?」心配そうに眉をひそめる鶴田くん。
「うん、全然大丈夫! もう元気になったし!」私はニコニコしながら答える。だって、本当のことだから。「それで、鶴田くんはこんな所で何しているの? 農場は結構遠くだよね? 八尺の本家に用事とか、そんな感じ?」
「えーと……」
 目を泳がせる鶴田くん。……私の直感がささやく、これは確実に私に会いに来た! さっきの彼の表情が全てを物語っていたじゃない! 昨日は彼女さんの手前、LINEの交換とかはできなかったけど、泊まっている家は教えておいてよかった! まさか彼の方から来てくれるなんて。これは……脈アリの予感しかないしない!
「せっかくだから、上がってく?」
「う、うん!」目を輝かせながら頷く彼はまるで犬のようだった。……ふっと頭に兄の顔が浮かぶ。もしかしたら私は、昇さんみたいな高嶺の花を追う恋よりも、兄や鶴田くんみたいに、従順で向こうから私を好いてくれる人の方が好きなのかもしれない。だってそっちの方が、傷つけることはあっても自分が傷つくことはないわけだから――
 鶴田くんを私の部屋に呼び入れて、私は真っ先に部屋の鍵を閉めた。……今、この家には私一人しかいない。他の3人はお出かけ中で、女中さんもどこかへ出かけている。本当は私も一緒に行くつもりだったんだけど、昇さんと一緒にいるのが気まずくて、昨日はしゃぎすぎて疲れたってことにして休んだ。それが、こんな結果につながるなんて! ああ、改めて思う。なんて奇跡!
「ねえ鶴田くん」
「うん?」窓の外を眺めていた彼が私の方を振り返る。
 私は彼の前に立って、腰を大きく曲げて、唇にチュッと軽くキスしてみせる。……彼女の顔がさっと頭を横切ったけど、それを振り払った。
 彼は目を大きく見開いて、顔を真っ赤にして、声を出さずに驚いた。
「好きです」隙を与えず、私は告白した。春香ちゃんという彼女がいるのは知っている。でも、私にも告白する権利くらいはあると思った。だって、私がずっと探し求めていた理想の男がそこにいるんだから。
「ありがとう、嬉しい。でもごめん……彼女がいるから」目を逸らしながら彼はそう答える。予想していた返答。でも、この程度で私はくじけない。
「じゃあ、セフレでもいいからさ、私と付き合わないかな? 私、そんくらい鶴田くんが好きになっちゃった」そんな台詞が口をついて出た。彼はまた目を大きくして驚いた。私は更に追い打ちをかけてみる「ダメ? それとも、春香ちゃんとヤるので精一杯かな?」
「いや、ハルちゃんとやったことはまだないよ。キスもまだで……」
「へー。予定はあるの?」相手が自分のペースにのってきたのを感じて、口元が緩む。
「ないよ、少なくとも今のところは」
「そうなんだ。ちなみに、付き合って何年?」
「えーと、中3の夏からだから、2年くらいかな」
「え! そんなに付き合っているのに、まだキスもしてないの?」
 私は大げさに驚いてみる。自分も一昨日が初体験だったけど、2年も付き合ってキスすらしていないのは、もう彼女じゃなくてただの友達ってことじゃないのかなと思う。友達ならきっとそう言う。今は色々な形の恋があるけれど、鶴田くんはそういうマイノリティにはどうしても見えないし。
「うん、やっぱり遅いかな?」
「遅いよ! ってことはつまり、彼女じゃなくて、ただの女友達ってことだよね?」
「いや、彼女だよ! ちゃんと告白されたし」
「でもキスもしていないし、エッチもしていないんでしょ? もしかして、そういうの興味ないとか?」
「違う!」鶴田くんが急に大きな声を出した。私は少し驚いて後ずさってしまった。自分の肩くらいしか小さい普通身長の人に対しても、怖いと思う時はある。だって私はただの女の子だから。怖いものなしの大女では決してないから。……少なくとも、自分はそう思っている。でも彼がすぐに「ごめん」と謝ってくれたから、私は安心して、微笑んだ。
「俺はもっとハルちゃんと仲良くなりたい。エッチなこともたくさんしたい。でも……ハルちゃんって、なんか堅いんだよ!」
「まあ、わかる。凄く真面目そうだよね」
「うん。昔からよくわからない子だったけど、今はまた変なものに感化されているみたいだし……なんか愚痴っぽくなってごめん」
「ううん、別に。でも、好きなんでしょ?」
 少し時間を置いてから、鶴田くんは自信なさそうに「うん」と答えた。
「ちなみに、春香ちゃんのどういう所が好きになったの?」私はさらに追い打ちをかけてみる。鶴田くんは首を大きく傾げてから、恥ずかしそうに答えた。
「……正直、身長かな」
「あ、長身フェチってやつ?」
 鶴田くんは驚いた表情をして、こくりと頷いた。
「あ、そういうの知っているんだね。で、ハルちゃん昔は普通だったんだよ。中1の時に160cmくらい? でもなんか好きな人を見ると背が伸びるとか言って、嘘だと思ったんだけど、実際中学校の3年間で1メートルくらい伸びたんだよ! ぐんぐん大きくなるハルちゃんを見て、俺はすげえ興奮して、毎日抜いていた……ごめん、下品だね。でも……これが俺の性癖なんだ。性癖はどうしようもないんだ! ……ごめん、引いたかな?」
「あはは! そんなの全然気にしないよ!」唐突な下ネタ発言には少し引いたけど、私は笑って受け流して見せる。それに、そういう男を私は既に知っているから、そこまでの衝撃は感じなかった。
「でも、すごい話だね」
「うん。まあ、今は成長止まったらしいけど。あ、別に成長期が好きなロリコンとかそういうわけじゃないよ。なんつーかさ、めっちゃ背が高くて、しかも自分を好いてくれる女の子なんて、俺みたいなフェチは好きになるしかないじゃん!」
 目を輝かせながら、春香ちゃんの良さを語る鶴田くんを見ながら、私は内心別のことを考えていた。なんか、おばあちゃんがむかし言っていた気がする。私たちの家系は、成長期に激しい恋をすると大女になって行き遅れるとか、聞いた気がする。そういえば私も、兄と血がつながっていないと知って、事実上の恋人関係になってから、やたら背が伸びた。そして今も伸びている。もしかしたらあの話は本当なのかな。それなら、私は今からでも、鶴田くんの理想の女性になれるんじゃないかな。
 ……私は、大きな敷布団の上に寝転がって、素早く服を脱ぐ。春香ちゃんが好きな鶴田くんなら、きっと私のことはもっと好きになってくれる。そんな自信があった。肌を晒すと、彼は慌て出した。その表情を見て、私は思わずクスリと笑ってしまった。
「な、な、何してんの!?」
「ん? やらないの?」
「やるって……え、今から?」
「うん。私だって身長220cmあるし、まだ成長しているよ。……興奮してるんでしょ? 欲求不満なんでしょ? やろうよ!」
 考える前に声が出た。……私はもう限界だった。倫理とか、そういうのを考えたくなかった。寂しくてたまらなかった。心の空洞を埋められるのなら、人にクズって思われても別にいいと思った。
「実は私も、好きな人を見ると背が伸びる体質かもーって、今の話聞いて思った」
「え、そうなの?」彼はジャケットを脱いで、ベルトを緩めながら彼は答える。「あ、そういえば名字同じだね。宮本さん。もしかして、親戚だった?」
「うーん、わからないけど、そうかもー」
 テキトーにユルく雑談をしている間に私たちは全裸になっていた。普通はやる前にシャワーを浴びたりするんだろうけど、もう遅いし、そんな気分じゃない。こういうのは勢いが大事なんだから、雰囲気が作れたらさっさとやらないとって思う。
「じゃあ、しようか」
「う、うん。初めてだけど、お願いします」知らない内に、鶴田くんはゴムの装着まで終わっている。初めてって言っていたのに、用意して、装着の練習もしていたのね。……機会があったら、春香ちゃんとやるつもりだったのかな? それなら春香ちゃん、ごめんね。でも、私だって必死なの。まあ私はまだ初潮がきていないし、鶴田くんが相手ならどっちでもいいんだけど。でも、せっかくつけてくれたんだから、今日はそれでやりますか。
「私も初めてみたいなものだから、こちらこそお願いします」
 中に硬くなった彼が入って、私たちは1つになった――

 1回目を終えると、ティッシュで液体をぬぐって、私たちは何を言わずとも自然と服を着始めた。この部屋は私にとっては先輩の従妹の家で、鶴田くんにとっては親戚の家。女中さんが帰ってくるかもしれないし、あまりこういうことで長々と居座っちゃいけないと思って、私たちは早く出ていこうと焦った。
「紗也さん、今日はありがとう。……筆おろししてくれて」
「何その言い方?」私は笑いながら言った。筆おろしなんて言われるとなんとなく嫌な気分になって、せっかくの雰囲気がぶち壊し。怒りたくなったけど、時間がそれを許さなかった。
「ハルちゃんとの件は色々考えなきゃいけないけど……念のため言っておくけど、俺は紗也ちゃんが好きだよ。一緒にいてすごく気が楽だったもん」
「ふふ、ありがとー!」上品に控えめに微笑もうとしてみたけど、上がり続ける口角を留めることはできなかった。きっと今の私は満面の笑みで彼の告白に答えているんだろう。
 鶴田くんを玄関まで見送る。彼が見えなくなるまで手を振ってから、私は一人寂しく、部屋に戻る。まだ13時半。2回目もやりたかったなと思いながら、同時に鶴田くんの事情を考えながら、私はさっきまで使っていた布団に寝ころぶ。なんだかすごく疲れた。私は目を瞑った。脳裏に過去の様々なことが浮かんでは消えていく――
 17歳、高校2年生にして私はとうとう正式に彼氏を手に入れることができた。兄は……そういうカウントに入れちゃいけないと思うから、今日が私の初彼氏記念。早い子は小学生で済ませていることを、私は今になって、成し遂げることができた!
 ……改めて思い返すと、長い道のりだった。一番新しい記憶は昨日。昇さんに告白したら、結婚を考えている彼女がいるからと振られた。その前に兄とセックスしてみたけど、やっぱり義理でも兄妹だっていう意識があって、夢中になれないと思った。そもそも男として、ときめかなかった。母性本能はややくすぐられたけど、彼氏とは思えなかった。だからさっさと諦めた。その前は……嫌な思い出しかない。中学生の時に初めて好きになった先輩には、「自分よりもデカい女は嫌だ」と笑いながら断られた。そして噂がクラスに広まって、色々言われたっけ。
 そうだ、それから兄にアピールするようになったんだ。きっかけは、兄が本当の兄ではないと知ったから。私の両親は仕事を言い訳に浮気して遊んでいるような人だった。でも、気が向くとたまに家に帰ってきて、愚痴を聞かせるために私たちを呼んだ。そしてある日、兄がいない時に、酔った母がぼそりと、兄が養子であることを話した。
 私はすごくびっくりした。物心ついた時からご飯を作ったり、中学生で保護者会に参加してくれたり、私のお世話をたくさんしてくれた兄、お兄ちゃん。私の兄だから当然だ、なんて思っていたけれど、いま思えばすごく大変だったと思うし、しかも実は全くの他人だったんだから! 他人なのに、私に尽くしてくれたんだから。
 それを知ってから、私は兄に少しくらいは恩返しをしてあげようと思った。兄は私が好きだとなんとなく気が付いていた。でも、小さな兄が私をじーっと無表情で見上げる度に、少し気持ち悪いと思った。その後、兄のパソコンを借りた時にあの人が長身フェチという性癖の持ち主だと知ってドン引きしたけど、自分みたいな女の子を好きになってくれる男がいると知って、少しだけ救われた気がした。
 そして私は、恩返しも兼ねて兄が喜ぶような振る舞いをたまにはしてみようと思った。するとその途端に兄は犬のように尻尾を振り回してひょいひょいと私に近づくようになった。……正直気持ち悪かったけど、優越感も味わえて面白かったし、距離を縮めてみると弟ができたみたいで、別の意味で楽しめた。そしてなにより、当時中学生だった私に、そんな風に私を『女』として見てくれる男はいなかったから、やっぱり少しだけ嬉しかった……
 兄が家を出て行くタイミングで私は高校生になった。高校に入ったら私でもモテるものと思っていたけど、結局中学校の繰り返しだったから、結局は兄との恋愛は遠距離で続くことになった。
 そう、昨日まではね――
 はーい、もうおしまーい! お兄ちゃんへ、今まで有難う御座いました、大変お世話になりました……と心の中で呟いてみる。モテない女だった私に希望を与えてくれてありがとうございました。でも、もう大丈夫です。だって今の私には、鶴田友一郎さんという素敵な彼氏がいるんだから!
 私はベッドの上に寝ころび、脱力する。人生2度目のセックスは、兄とやった時より別の意味で気持ちよくて、そして疲れた。目を閉じると、スーッと意識が無くなっていった――

 ……知らない間に寝ていて、起きたら朝になっていた。昨日のお昼からだから、私は16時間くらい寝ていたらしい。寝た時はお昼だったのに、今は朝の5時になっていて、外が少し明るくなっている。
 しばらくベッドの上でごろごろしていたら6時くらいになっていて、私は起き上がる。……心なしか、パジャマがきつくなった気がする。元々小さくなっていたパジャマがさらに小さくなってつんつるてんになってしまった。また背が伸びたのかもしれない。何センチになっているんだろう。225cmくらいあるのかな? 春香ちゃんは250cmみたいだけど、私も将来それくらいになったりするのかな? ……ああ、嫌だなあ、成長するの。早く止まってほしい。洋服を作り直さなくちゃいけないし、ドアや天井に頭をぶつけるのは日常茶飯事だし、車や電車は小さくて乗るのが厳しいし、変に目立って知らない人から勝手なこと言われるし。
 ……でも、鶴田くんがそういう子が好きなら、そうなりたいかも。……なんだろう、この感情。生まれて初めて、背が高くて良かったと心の底から思えたかもしれない。好きな人の好きな体型であることが、とても幸せだ。
 部屋から出てシャワーを浴びる。昨日、彼の肉棒が入ったところを撫でてみて、少し嬉しくなって、同時に切なくなった。彼とまたできるのかしら? セフレでいいなんて言ったけど、本当はずっと彼の隣にいたい。
 シャワーから浴びて着替えると、急にお腹が空いてきた。昨日の昼から何も食べていないんだから当然だ。私はそのまま居間に向かうと、小さな兄が、相対的に大きなカメラを抱えて、その手入れをしつつ風景を撮影していた。私はそれを見てため息をつく。昨日の朝までの私はこんな男のことが好きだったらしい。高校生になって彼氏ができるどころか、カップルにネタとして利用された。そんな状況なのもあって、2年間もコイツが好きだった。
 ……気持ち悪いと思った。そういえば、私の家系は人を好きになると背が伸びるとか。もしそれが本当なら、私はコイツのせいで私はこんな巨人になったんだ。そう考えると余計にイライラが募って、今にも小さい兄を蹴り飛ばしてやりたくなった。
「あ……おはよう」
 兄が私の存在に気が付いた。私の苛立った顔つきに反応したのか、びくりと小動物のように体を震わせた。
「えーと、体調の方はどう?」
「は?」
「昨日の朝、体調悪いからって欠席したじゃん。昨夜も早く寝たみたいだし」
「あー」
 そういえば3人にはそう説明していたのを思い出した。私は小さく頷く。
「そう、よかった」
 それだけ言って、兄はカメラを大切そうに専用のカバンにしまう。10万円くらいするらしい高級なカメラ。そのカバンを蹴り飛ばしたらどんな反応をするんだろう……なんて妄想してみるけれど、そこまではできない。それが私の性格だから。小心者なんだ。私の普段の学校でのキャラはノリの良いお茶らけキャラ。ふざけていないとやっていけない。無意識の心無い悪口を、演技でも受け流していないとやっていられない。
「おはよー。紗也ちゃん、体調はどう?」
 昇さんが起きてきた。その後ろに綾子先輩も一緒だ。
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「そう、ならよかったよ」
 にこりと微笑む昇さん。一昨日までは、この笑顔に胸を突き抜かれていたけど、今は特になんとも思わない。
 それよりも……心なしか綾子先輩が小さくなった気がする。先輩は眠そうにぼんやりしているけれど、もしも鶴田くんがこの場に居たら、私の変化に気づいて喜んでくれたのかしら。……なんて考えると、心がウキウキしてしまう。さっきも感じたこの気持ちは何なんだろう。これが本当の恋なの? 淳とかいう男を、母性本能を好意として錯覚させていたあの頃の感情とは全く違う、心の底から彼を愛している感じ。……あの頃、なんて言ったけど、実際には一昨日くらいまでの話。でも、もう遠い昔のことのように思えてしまう。
 ああ、私ってなんて自分勝手! でも、これが私の本音なのだ。
「今日は各々自由に過ごそうって昨日みんなで決めたんだけど、紗也ちゃんはどこか行きたいところとかある?」
 朝食を取りながら、昇さんが話しかけてきた。行きたいところ……鶴田くんのところなんてとても言えないし、行けるかもわからない。……でも、後でLINEを送ってみようかな? なんて考えながら、私は無言で首を傾げる。
「淳くんは、カーシェアでドライブするんだっけ?」昇さんが口を開く。隣に座っている兄が、親し気な笑顔を浮かべて答えた。「はい、昨日で借りてきました。自由に色々見てみたいと思いまして。そんな遠くに行くつもりはなくて、高野農場とかその周辺を適当にふらついてみようかなって」
「あー、高野さんの所ね。よく知ってんね、なんで?」
「農場の風景を撮っていたら、高野優希さんに声をかけられて、それで知りました。なんか、不審者か果物泥棒だと思われたみたいで」
「あっはっは!」
 昇さんの大笑いを中心に、小さな笑いが起こる。私も釣られて少しだけ笑ってしまった。
「それで、高野さんとは少しだけ仲良くなって。実は今日、会う予定をしているんです」
「へー、何かするの? 高野優希くんなんて、跡取り修行とかで凄く忙しいと思うけど。お父さんもずっと病気だし、お兄さんは遊び人だし」
「よくわかりませんが、なんか聞きたいことがあるらしくて。そこに寄ってから、適当に車で散歩しようと思っています」
「そうなんだ。紗也ちゃんはどうするの?」
「んー、兄と一緒に散歩します」
 私はそう答えた。1日中家にいるのも嫌だし、せっかくなら外に出たいと思った。答えた後で、私は隣の兄を見下ろした。兄はぎょっとして私を見上げていた。……私は驚いた。てっきり犬みたいに瞳を輝かせて喜ぶものと思ったのに、ごく普通に戸惑っていたのだから。……なんかむかついた。
「兄妹仲良く水入らず、ってところかな? ハッハ!」
 昇さんが笑うので、私たちも合わせて笑う。私は心にもやもやしたものを残しながら、朝食の時間が終わった。
 その後は事務的な会話だけを交わして、私と兄は車に乗り込む。兄が借りたのはワンボックスカーというもので、天井が高い。私に配慮してくれたのかと思ったけれど、単純に乗りやすいからいつも借りているらしい。小さい兄が運転席に座っている様子は最初は滑稽だったけれど、思ったよりスムーズに運転していて少し驚いた。
「僕は高野さんのところで降りるけど、紗也はどうするの?」
 前を見ながら兄が話かけてくる。いま考えているところだよ、とイライラしながら心の中で呟いて、無視した。兄はそれ以上何も話しかけてこなかったので、一層イライラした。2日前まであんなに私にヘコヘコしていたのに、何なんだ!
 大きな表札に『高野』と書かれた立派なお屋敷の門をくぐって、兄は駐車場に停車する。……木造づくりの、年季の入った大きなお屋敷。駐車場も広い。まさか兄がこんなすごいところに向かっていたとは思わなくて、私はなんとなくで付いてきてしまったことを後悔した。
「エンジン止めるから、とりあえず降りて」
 私は言われるがままに後部座席から降りた。向こうから小さい人がやってきて、兄に挨拶する。私は思わずそちらを見下ろす。兄と同じくらいの背丈の、小さい男性が兄に頭を下げていた。
「宮本さん、急にお呼びしてしまい、申し訳ありません」
「いえ、特に用事はありませんでしたから、お気になさらず。こちら、妹の紗也です。高校2年生、16歳です。色々ありまして、一緒に来ました」
「宮本沙也さんですね。初めまして、高野優希と申します」
 丁寧にお辞儀をされたので、私も深々と腰を曲げる。朝、昇さんが話していたことを思い出した。高野優希、たしかこの家の跡取りとかいう人。そんな人と兄が親しそうにしていることを意味不明に思いながら、私はいつまでも腰を低くして、少しでも自分を小さく見せようとしていた。
「あの、高野さん。急で申し訳ないのですが、紗也が暇を潰せる場所を探しているんです? お部屋とか貸してもらえませんか?」
「い、いや、別にいいです! 普通に、散歩とかしていますから」私は咄嗟に、兄のお節介なウザイ優しさを否定する。
「散歩って言っても、この辺には本当に何もないぞ。ここは高野さんに相談すべきだよ」
「そうですね……」高野さんは考え込む。無言になっている間、私は胸がどきどきしていた。自分の軽率な行動が、偉い人に迷惑をかけている事実に耐えられなかった。
「あ、高校2年生と言いましたね。うちのスタッフの前山智子さんと同じくらいの歳です。ちょうど鶴田農場の春香さんと作業しているところでしょうから、農作業の体験とかどうでしょうか? 果樹の手入れなので、服が汚れるようなこともありません」
 私を見上げながら丁寧な口調で淡々と説明される。その瞳には、鶴田くんのような輝きはなく、また高校の同級生みたいに、人を見くだすか話題のネタを見つけて喜んでいるような、そんな色もない。ただ、私を1人の人間として、客として事務的に扱っている、そんな瞳だった。なんか、心が無さそうな人だと思った。
 そして、それに妙な感じを覚えた後で、『春香』という名前を聞いて心がぎゅっとなった。私は高野さんの紹介を断ろうと思ったけれど……考え直して、むしろこれは良いチャンスだと思って、そうすることに決めた。私は小心者だけれど、こういう時だけは強いんだ。どんなに汚い手でも、自分の好きな人のために頑張ることができるんだ!
 そう自分に言い聞かせて、無理やり笑顔を作って、震える声で言う。「ありがとうございます! なら、農業の体験をさせてください」
「承知しました。あそこにいる背の高い女性がその2人です。左が智子さん、右が春香さんです。今は梅の摘心か防虫作業をしていると思います」
 指を指された方を見る。遠くの方で、背の高い女の子と、その子より頭一つ背の低い女の子が仲良く話していた。……遠くだけど、私にはすぐに分かった。高野さんも言っていたけど、右側の背の低い方の女の子が春香ちゃんだ。……さっき決心したばかりだけど、やっぱり本人を目の前にすると怖いし、胸が痛い。その次に、春香ちゃんよりも頭一つ背の高い智子という女の子を見て、驚く。250cmの春香ちゃんよりも背の高い女の子?220cm台の私や綾子先輩よりも背の高い女の子が2人もいるなんて、この町はどうなっているの? 訳がわからない!
「では、智子さんに連絡しておきます」
「いえ、大丈夫です!」携帯を取り出す高野さんを、私は咄嗟にさえぎる。高野さんは、表情はそのままで口を閉じて、じっと私を見上げる。
「あの……自分で話しますから」
「知しました。では淳さん、こちらへどうぞ」
 高野さんは相変わらず淡々と兄を屋敷に連れていき、私は一人ぼっちになる。それから私はゆっくりと、農場の方に歩いていった。

「だから、ハルちゃんは優希さんにもっと積極的になるべきなの! 言葉と行動で伝えるの! 昨日は何をしたの?」
「昨日は……何もしていない。ちょっと、お母さまに――」
「ほらっ! そんなんじゃ、誰かに盗られちゃうよ!」
「だって昨日、食事の後に話しかけようとしたらお母さまに呼び出されて。色々あって……お話の後で優希さんに話しかけようと思ったけど、優希さんはお父さまと結構遅くまで話していたみたいで……諦めちゃった」
「そこ! そこで、ちゃんと出てくるまで待って、捕まえて、話しかけなきゃ! もーそうやって理由をつけて、結局動かなくて。チャンスは作るものなんだよ! ……まあ、気持ちはわかるよ。ちょっと前の私がそうだったもん。そう、私が友一郎さんに告白する時の話。振られたらって考えると、怖いよね。でも、言わなきゃいけないの!」
「うん、うん! 今日はやる! 約束する!」
「絶対だよ! 明日も結果聞きに来るからね!」
 ……2人の隣に座って、私は今、春香ちゃんと智子ちゃんの会話を聞いている。
 智子ちゃんに事情を話したら、最初は農作業について色々教えてくれたけど、私が疲れているのを察してくれて、休憩所みたいなところに紹介されて、そこの長いベンチに3人で並んで腰かけて占領している。長いベンチだけど、私たちが座るといっぱいになってしまう。
 それから2人はずっとこんな調子だ。もっとも、話しかけた時からこんな感じだった。恋バナというのは分かるけど、私は未だに、誰が誰の元カレ今カレなのか、よくわかっていない。……いや、春香ちゃんの今カレだけは知っている。鶴田くんだ。そして春香ちゃんは、まるで私が彼と関係を持っていることを見透かしているかのように、さっきから鶴田くんとの馴れ初めについて何かの拍子に話してきては、私の顔色を窺っている気がする。その度に私の胸が痛くなった。
「あ、紗也さん、すみません。なんか、ずっと2人で盛り上がっちゃって」
 智子ちゃんが気遣って私に話を振ってくれた。ありがとう。でもごめん、お節介なんだ。話が私に振られた途端に、私の隣に座っている春香ちゃんから冷たい視線が注がれた。1つ年下といっても、私よりも大きな彼女からそうされるとすごく怖い。私もよく初対面の人から怖がられるけど、こんな気分なんだと初めて知った。
「ううん、大丈夫。2人の話、聞いていて楽しいし」春香ちゃんの目を見ないようにしながら、私は笑顔を作って智子ちゃんに向けた。
「楽しいって、何が楽しいんですか?」春香ちゃんが眉をしかめながら質問してきたので、私はそっちを見ざるを得なくなった。
「えーと……なんか、きらきらしてるなーって!」笑顔を崩さずに私は答えた。「好きな人がいて、その人に振り向いてもらうために努力する女の子って、すごくかわいいと思うから」
「じゃあ紗也さんには、好きな人っていないんですか?」
 『いないよ』と嘘つこうとした。でも、口がそう動かなかった。黙っていると、春香ちゃんが追い打ちをかけてきた。「いるんですか? ……どういう人ですか?」
「なんでそんなことが気になるの?」咄嗟に言い返してしまう。私がどんな人を好きになろうなんて、どうでもいいじゃないと、心の中で思った。でも、どうしても本気では怒れなかった。ついさっきまで、私は恋のためなら強くなれるって思っていたのに……
「春香ちゃん、落ち着いて。どうしたの、急に」智子ちゃんが鎮めようとしてくれたけど、春香ちゃんは瞬時に首を横に振った。
「ごめん、無理。だって……」春香ちゃんは目をぎゅっと瞑ってから、大きく見開いて私を睨みつけた。
「多分ですけど……鶴田友一郎さんのこと、好きですよね? もしかして友一郎さんとあの後、会いましたか?」
 『何言ってんの? おととい会ったばかりなのに』……と言おうとしたけれど、唇が震えて言えなかった。嘘を言ってもどうせすぐばれてしまう気がして言えなかった。……私は小心者だ、わかっていたけれど、今またそれを思い知った。それに……私が彼に抱いている想いについても、嘘をつきたくなかった。
 春香ちゃんは一層きつく私を睨みつけて、それから……頭を下げる。
「ん?」春香ちゃんのその不可解な行動に、思わず声が漏れて、そして私は身構える。何をしてくるんだろうとドキドキして、私は少しだけ春香ちゃんから離れた。
「お願いです……教えてください」
「え?」意外な反応に、また声が漏れた。てっきり鶴田くんとの関係を詰められて、その過程で罵倒されても仕方がないと思っていた。でも、春香ちゃんは声を震わせながらそう言った。震える彼女の背中を、智子ちゃんが優しくさすりながら、春香ちゃんはゆっくりと話を始める。
「あの、本当のことが知りたいんです……友一郎さんが、誰が好きなのかって。私は友一郎が好きでした。好きで好きで、振り向いてもらうために努力しました。信じてもらえるかわかりませんが、私の家系は感情が昂ると背が伸びる体質らしくて、友一郎さんが背の高い女の子が好きだっていうから、彼を眺めて感情を昂らせて頑張って身長を伸ばして、250cmまで伸ばしました。……でも最近になって、自分が彼を本当に好きかわからなくなっちゃいました。同時に、友一郎さんが私のことを好きでいてくれるのか、それとも都合のいい女として思われているのかわからなくなりました」
 しばらく沈黙が流れてから、春香ちゃんは顔を上げる。どんよりと暗い青白い表情で、しかし目だけは力強くこちらを真っすぐ見つめている。私はさっと目を逸らしてしまう。
「昨日、友一郎さんはお昼までおでかけしていました。おでかけするのはいつもの事ですが、伯父様と一緒に車で行くわけじゃなくて、歩いてどこかに行っていました。……紗也さんの泊まっている家の方向でした。紗也さん、答えてください。昨日、友一郎さんと会いましたか?」
 真っすぐ私の目を見つめながら、春香ちゃんは尋ねてきた。蛇に睨まれた蛙、という慣用句があるけれど、今の自分がまさにそうだ。……なんて、どうでもいいことを考えてしまうくらいには、不思議と、冷静な気持ちになっていた。心臓はバクバクと鼓動しているのに、頭では冷静に、なんて返すべきかと考えている。変な汗が額を伝うのが分かった。
「……うん」小さく頷いて、さっと目を逸らして答える。視界の端で、春香ちゃんの表情が脱力していくのが見える。ごめんなさい……心からそう思う。もしも私が同じことをされたら、凄くショックだと思う。
 でも、ごめん。私みたいなのにも事情があるんだ! むしろ、私みたいに性格が歪んでしまう前に、鶴田くんみたいな素敵な人に出会えた春香ちゃんが、たまらなく羨ましい! そんなに規格外の巨体を抱えておきながら、そんなに純粋でいられるあなたが羨ましい。
「会いました」目を逸らしたまま、しかしはっきりと私は言う。「それに、エッチもしました。私から誘いました」
「え? ……え、え、え?」春香ちゃんの震える声が聞こえる。私はふっと目を完全に瞑ってしまった。
「お昼ごろ、家の前に彼がいました。話しかけたら、私に会いに来てくれたと言いました。……私は彼を部屋に入れました。少し話してから、エッチしました。ゴムは彼が持っていました」
 一通り話し終えて、沈黙が流れる。とても気まずい……でも、同時に清々しい。嘘をつきとおした関係なんて、私には向かない。ハッキリさせたい。きっと、今の春香ちゃんも同じ。でも、真実は彼女にとってとても残酷だろう。
 ただ静かな世界の中にいるような感じがした。自然の音しか聞こえず、春香ちゃんの息吹が消えてしまったように思えた。……怖くなって薄目を開けると、春香ちゃんは虚空を見つめながら静かに泣いていた。涙を流して、頬と目を真っ赤にして、鼻水まで垂らして、静かに震えていた。
「ごめん」向こうが聞こえるかわからないくらいの、自分でも本当に発したかわからないくらいの小さな声で謝る。心からの謝罪だった。私が犯した罪に対する懺悔だった。胸が張り裂けそうだった。ごめんなさい……
「……春香ちゃん、大丈夫?」智子ちゃんが肩をゆする。でも、春香ちゃんは小さくコクコクと頷くだけだった。
「……あっ、あははは!」急に顔を空に向けて笑い出す。狂ったように笑う彼女を目の前にして、私はベンチから立ち上がって逃げる構えをしてしまう。でも春香ちゃんはさらに脱力して、智子ちゃんの膝の上に頭を乗せて、手足をだらんとしていた。私は静かに、もう一度ベンチの端に座って春香ちゃんを見下ろす。
「ははっ……私って本当に馬鹿。たぶん、ずっと前から気が付いていたのに。友達とかお父さんお母さんにも言われていたのに、自分は正しいと信じて疑わなくて、結局裏切られて……あっははっ! ……は、は」
 作り物の笑顔が一転して、絶望に満ちた表情に変わる。……その原因が私であることはわかっている。でも、私だって大変なの……それだけはわかってほしい。だって私みたいな女の子は、選べる側じゃないんだから! ……それくらい、春香ちゃんにもわかるよね?
「私が友一郎さんを好きになったのは……」春香ちゃんが、口角だけを上げて笑いながら、うつろな目で語り始める。「……笑顔が素敵だったからです。たぶん……でも。素敵な笑顔は詐欺師の笑顔だったみたいです。なんか、あるじゃないですか。女詐欺師は美人とか、そういうやつです。私は彼に騙されていたんです。周りも少し忠告してくれたし、自分でも心の奥底では何となく気が付いていたような気がします。でも、自分の場合だけは特別だと信じていたんです。そんな忠告はただの嫉妬だって。でも、本当だった……あははっ! ……あははっ――」

 それから春香ちゃんは狂ったように笑いながら、鶴田くんに対して抱いていた違和感とか、今後の人生の展望について語り始めた。何度も同じ話をしては、何度も悲しんだ。春香ちゃん自身、鶴田くんに付き合うのに疲れていたという自覚があるようだった。……何となくわかる。春香ちゃんはすごく真面目で、一方で鶴田くんはもっと能天気な感じだもん。昨日、鶴田くんも同じようなことを言っていたし、あの日の夕方に2人を初めて見た時から、何となくわかった。
 こういう時、女は元カレの悪口を、自分のせいかもしれないなんて1ミリも考えずに語りだすものだ。春香ちゃんの場合も同じだった。鶴田くんの悪口を、私の前でこれでもかと話す。まるで私に忠告でもしているかのように。
 でも、当然私に春香ちゃんを批判する権利はない。彼の嫌な所を列挙している間、私は頭の中で、私ならどういう風に彼を愛そうかと考えている。適当に相槌を打ちながら、そういうことを考えている間に、春香ちゃんの方も段々と言うことがなくなってきたみたいで、やがていつもの、大人しくて地味な感じに戻った。
「……すみません、感情的になって、色々言ってしまって」
「ううん。気にしないで」申し訳なさげな表情を作って、地雷原を避けるように適当な相槌を打つ。
「でも……友一郎さんは、好きかもしれません。だって……3年間好きだったんです。3年間も、私の全てだったんです。それだけは確かで、だから悔しくて……でも、もうどうしようもなくて」
「……ごめんね」
「いえ、紗也さんが悪いんじゃないです。私が悪いんです。自分で決めて、失敗しただけなんです……」
 鶴田くんとのこれまでを語る春香ちゃんを見ていると、可哀そうという気持ちと一緒に、私の心の奥底から黒いものが湧き出てくる。それは『嫉妬』だ。3年間も彼といられた春香ちゃんが、彼のことをよく知っている春香ちゃんが、私はただ羨ましい。私なんて、好きな人と付き合ったこともなくて、最後は兄で処女を捨てた。一度捨てたものは、もう戻らない。そして私は昨日、彼の初めてを奪ってやった。
 ……もうこれでお互い様、ってことでいいんじゃないのかな? なんて、本人には言えないけれど、私は胸が張り裂けそうになりながら、心の中で主張してた。
「……あーあ!」ぐちゃぐちゃになった顔を思い切り上げて、春香ちゃんは青い空を見上げる。しばらくそうしていると、智子ちゃんがすっとティッシュとハンカチを春香ちゃんの手の上に乗せた。春香ちゃんはティッシュだけを受けとって、思い切り鼻をかんでから、自分のハンカチで顔全体を濡らしている涙を拭きとった。
「……でもなんか、スッキリしました! 本当はずっと不安だったんです、友一郎さんと付き合うことが。私、一昨日ここに来たばかりなんです。そして、友一郎さんと一緒に暮らすのもまだ3日目なんです。その前にも何度か泊まったことはありましたけど、なんとなく一緒にいて楽しくないって、疲れちゃうなって思っていたんです。でも……私には、もうこれしかないから。高校に行くのも、制服の特注とかですごくお金がかかっちゃうし、勉強も特別好きな訳じゃないし、卒業したところでその後どうすればいいのかもわからないし。それなら早く働きたいなって。そして色々考えている時に友一郎さんに誘われて就職先が決まって、後戻りできなくなって……最初は彼を追っていたのに、いつの間にか彼に振り回されていましたね」
 さっき聞いたのと同じ話を、春香ちゃんはまた繰り返す。春香ちゃんの中にはまだまだ鶴田くんへの未練もまだまだたくさんあって、それを断つために自分に言い聞かせているんだと思う。……なんとなく私に似ている。春香ちゃんと智子ちゃんには負けるけど、私だって220cmある巨人女だ。それが原因で色々と嫌な目に遭ってきた。普通の女の子が持っている選択肢を、私は最初から持っていなかった。そういう時、例えば兄に恋するなんて変な方向に行ってしまう時があるし、そんな時の自分は、自己洗脳してその状況を正当化していた。好きでもない男を、母性本能とか使って好きと錯覚させて、可愛がって自分を興奮させていた。
「はあ……智子ちゃん、紗也さん、ありがとうございます。落ち着きました」
 左右を交互に振り返り、ニコっと笑う。どことなく人工的な笑顔だと、私には思えた。
「でも、どうしよう。……友一郎さんとの関係は、まあお仕事と割り切ります。でも、それだけが人生じゃないし。……あー、こんなにでかい女の子を受け入れてくれる素敵な男性なんて、他にいるのかな? うーん、やっぱいないかなー。一生独りぼっちかなー」
 智子ちゃんの眉がピクリと動いた。私は背筋がぞっとした。春香ちゃん、辛いのは分かるけど、智子ちゃんの前でそれは言っちゃいけないよ! だってまるで、『自分くらいの大女でも今後一生モテないから、智子ちゃんはもっとそうだよね』って言っているみたいじゃん!
 私は咄嗟に春香ちゃんと智子ちゃんをフォローする。
「そんなことないよ! 背の高い女性が好きな男の子もたくさんいるよ!」
「へー、そうなんですか。紗也さんは、そういう人とよく付き合うんですか?」
 不自然な笑顔と一緒に軽蔑の表情を浮かべながら、ベンチに座り直して背筋をピンと伸ばした春香ちゃんは私を見下ろす。私は無理やり笑顔を作って答える。
「そんなことはないけど、でもそういう人がいるのは知ってる。鶴田くんもそうだけど、私の兄もそうなの。良かったら、紹介しようか? 20歳くらいだから結構年上になっちゃうけど、優しくて良い人だよ」
「うーん、彼女とかいないんですか?」
「うん、今はいないって言っていた」嘘はついていない、と自分に言い聞かせる。「長身フェチだから、女の子は190cm以上じゃないとダメって感じ。まあ、本人は150cmしかないんだけど」
「なんか友一郎さんと同じようなこと言っていますね。友一郎さんは身長が190cmあるんですけど、自分より背が高い女性じゃないとだめって……まあ、高いほどいいってわけじゃなかったみたいですけど」
 春香ちゃんはフッと自嘲気味に鼻で笑った。
「まあ、男なんて星の数ほどいるからさ。春香ちゃんに合う男もいると思うよ。良かったら、兄のLINE教えようか?」
「え? 勝手に教えちゃっていいんですか?」
「いいの! あいつ絶対喜ぶから!」
 私は無理やり、春香ちゃんに兄の連絡先を教える。正直、2人が合うかどうかはよくわからなかったけど、私にできる償いはこれくらいしかないと思ったし、私は今の気まずい空気を修復するのに必死だった。
「ありがとうございます。……ところで、優希さんってフェチなの?」春香ちゃんは急に智子ちゃんの方に振り返って、尋ねた。突然の質問に、智子ちゃんは軽く戸惑った。
「えーと……あの、フェチってなに? 私、それいま初めて聞いた」
「え! あのー、背が高い低いとか……まあ身長じゃなくても、胸が大きいとか、そういう、体の特徴を大好きになる人って感じかな? こんな感じですよね、紗也さん」
「うん、合ってると思うよ」
「えーと……ちょっとよくわからないです。優希さんにそういう事言われたこともないし、私も気にしたことなかったから」
「そうなんだー。でも、私の予想だと絶対優希さんはフェチだね! だってそうじゃなかったら、普通私たちみたいな巨大な女の子のことなんて好きにならないもん!」
 智子ちゃんの表情が曇る。『それは失礼だよ』と春香ちゃんに言おうとしたけど、言えなかった。そして話はどんどん最初に戻っていった。つまり、智子ちゃんが優希さんにもっと積極的にアピールすべきという話だ。そしてその過程で、春香ちゃんは兄にメッセージを送って私に見せびらかした。兄は今は優希さんと話しているから既読はつかないだろうけど、メッセージを見た瞬間跳ね上がることだろう。そんな光景がまざまざと目に浮かんだ。
「ほら、私も思い切って知らない人にLINEしてみたよ! まずは行動だよ! だから智子ちゃんも、今日はちゃんと優希さんと会ってお話してね。約束だよ!」
「う、うんうん!」
 智子ちゃんはにっこり笑いながら、大きく頷く。それを見て春香ちゃんは満足しているように見えた。春香ちゃんはきっと大きな声でしゃべって笑うことで、3年間愛した彼氏を失ったショックを忘れようとしているんだと思う。それに巻き込まれた智子ちゃんは少し可哀そうと思うけど、私には春香ちゃんを叱る権利はない……
 智子ちゃんのスマホが鳴る。プルルルル、というごく普通のつまらない着信音だ。智子ちゃんは電話を取って会話する。そういえば、智子ちゃんも春香ちゃんも、一応農作業の最中、つまり仕事中なんだ。
 智子ちゃんが話している間、私はさっきまでの出来事について振り返ってみた。そしてあることに気が付く。春香ちゃんについては今日のことで色々知ることができた。でも、智子ちゃんについては何も知らない。あまり話すタイプじゃなさそうだけど、優希さんとの関係について少し気になるし、せっかくなら何か先輩としてアドバイスしたいと思った。春香ちゃんは行動、行動と言っていたけど、実際行動ばかりじゃ後悔する時もある。……私みたいに、一生処女じゃないかと不安に思ってどうでもいい人に捧げてしまう人もいる。人生長いんだから25歳まで処女なら捨てるとか、それくらい時間をかけて決めるものだと思う。もちろん、その人なりの恋愛スタイルがあると思うけど……。いつか、智子ちゃんと2人きりで話せるといいな。
「優希さんから、紗也さんを車のところまで連れてくるよう言われました。紗也さん、案内しますね」
 智子ちゃんが立ち上がった後に、私もあわてて立ち上がる。なぜか春香ちゃんもついてきて、私たちは屋敷の方へと向かった。

 兄の車に乗りこんで、高野農場のお二人に手を振って別れて、私たちは旅館を目指す。来た頃よりも私はだいぶ気分が落ち着いていて、兄とも適当に雑談を交わした。
「ねえお兄ちゃん、春香ちゃんの話、受けるの?」
「え? ……まあ、僕は彼女もいないし、むしろ大歓迎というか」
 運転しているから、後部座席の私から表情はわからない。バックミラーというものに兄の表情は映らない。でも話し口からして、兄が喜んでいるのがわかる。そりゃあ、250cmの女の子に急に『好きになりました付き合ってください!』なんて言われたら、長身フェチの男なら誰でもそうなるだろう。
 実際、春香ちゃんは本当にそんなことをしたのだ。私を見送りに屋敷までついてきてくれて、兄が私と一緒に帰るタイミングで春香ちゃんは兄に告白した。
「あの、もし良ければ、私と付き合ってください! LINEのフレンド申請はもう送りました。では!!」それだけ言うと、春香ちゃんは顔を真っ赤にしてどこかへ走っていった。残された兄は、LINEを確認して、フレンド申請を承認したらしかった。
 それから私たちは車に乗って、帰路に就くことにした。兄は他に行きたいところがあるらしいけれど、私にはないのでとりあえず帰ってもらうことにした。歩いても帰れる距離だけど、兄は送ってくれるといった。……相変わらず、優しさだけはある。
 兄の運転する車に乗ってぼんやりと外を、畑や果樹園を眺めている内に、ここ数日間の出来事が思い出されていく。思い返せば激動の日々だった。兄とセックスして、昇さんを誘って断られて、鶴田くんと出会ってセックスして……好きと言って貰えて、春香ちゃんに話して、春香ちゃんはそれを認めてくれて、その春香ちゃんが今度は兄に恋しようとしている。
 人生とは、変わる時はこんなにすぐに変わってしまうのか、と思った。そういえば高校受験の時だって、たった数時間のテストで4月からの日々が決まったんだ。兄の大学受験なんてもっとすごかった。住む場所すらもそれで変わってしまったのだから。
 私たちはこれからどうなっていくんだろう。私も兄も、春香ちゃんも、智子ちゃんも。……そんなことをぼんやりと考えている内に旅館に着いて、私たちは降りる。さて、これから何をしよう。……鶴田くんにメッセージを送ってみようかな。さっきの件で、私たちの仲は公認になったといってもいいわけだしね。早く鶴田くんに伝えようか。それとも、向こうから言ってくれるのを待つべきか。春香ちゃんの気持ちがまた変わらないとも限らないわけだし……。
 なーんて考えていたら、私はいつの間にかスマホをポケットから取り出していて、彼の個人チャットを開いていた。車に揺られながらメッセージを打つ。どんな文章を彼に送ろうかと悩む。その時間がとても楽しくて、嬉しくて、胸を躍らせながら私は文章を作っては消してを繰り返していた。