高野優希の話
宮本さん兄妹を見送ると、僕は智子さんと2人きりになった。仕事を済ませるため、急いで部屋に戻ろうとしたら彼女に呼び止められた。予想していたことだった。
「優希さん! あの……今夜は、お時間ありますか? 遅くなっても、10分だけでもいいので……お話したいです」
今日のスケジュールを頭に思い浮かべる。これから淳さんの話をまとめて調査報告書を書き、父に提出し、話を聞く。その後も色々やることがあるが、別に今日やることではない。僕は少し考えてから、応える。
「はい、大丈夫です。仕事が終わったら智子さんの部屋に行きます」
「私がお部屋に行くのは、ダメですか?」
地面に正座した智子さんがじっと、僕をやや見下ろしながら顔を覗きこむ。彼女がここに来た時から、こんなことをしてくるようになった。……しかし僕は、その期待に応えることはどうしてもできない。それは、ある意味ではやらなくてはならない僕の『仕事』なのだが、今の僕はまだそこまで割り切ることができていない。
「平気ですが、仕事が終わるまでしばらく待ってもらうことになるかも……」
「大丈夫です!」僕が全部言い終える前に、智子さんは答える。彼女のパアっと明るい、嬉しそうな表情を見るのが、とても辛い。
「なら、今夜。宜しくお願いします」
智子さんの顔を見ないように深々とお辞儀して、それだけ言って僕は小走りで自室に向かった。胸が痛むのを感じる。しかし、きっとこれが僕の仕事であり、また彼女にとっての幸せだと思えてならないのだ――
部屋に戻り、淳さんから聞いた話をまとめて、僕は急いで智子さんの予想家系図を作り、補足情報を加えて調査報告書としてまとめた。急ぐ必要はそこまでないのに、どうしてか焦ってしまった。
僕はそれを印刷して、父の部屋に向かいドアをノックする。母の声が中から聞こえたのを確認してから、ゆっくりドアを開ける。布団の上で上半身を起こした状態で昼食のおかゆを食べているやせ細った父の姿が目に映る。僕は思わず目を背けたくなった。
「父さん、宮本智子さんの調査が終わりました」
「随分早かったな。淳という奴は何を知っていたんだ?」
「智子さんの父方の情報です。鶴田家、村田家との新たなつながりが判明しました」
胸の痛みを無視し、何も感じないよう努めながら、僕は調べた事実だけを淡々と話す。
「ほう! 両方とも八尺の分家のじゃないか。まさか父方にも関係があるとは」父はやや声を高くして、僕が差し出した報告書を読み始める。母も一緒にそうした。パラパラと流し読みをしてから、父は紙の束を母に渡す。
「つまり、お前が心配していたようなことは何一つないと、むしろ、好都合であるということでいいんだな」
「……はい」
「なら、宮本智子と結婚しなさい」
「……」すぐに頷かなくてはならなかった。しかし、僕はそれができなかった。少しして母がため息をつく。
「何を躊躇しているの? 別に、他に好きな子がいるわけでもないんでしょ。前々から話していたでしょ。優希は次男だけど、後継ぎになってほしいって。私もお父さんも、それを望んでいるって。優希もわかってくれたじゃない」
「でも、智子さんはまだ15歳ですよ。あまりに若すぎます」
「もう1か月もすれば16歳になります、法的には関係ありません。あんたが優柔不断だから、昨日智子ちゃんに聞いてみました。優希が好きか、結婚してもいいかって。あの子は快く承諾してくれましたよ」
「それは、建前というものでしょう。智子さんにも、もっと時間をかけて選ぶ権利はあるはずです」
「散々言いましたが、どうでもいいことです。あの子と結婚すれば家がこの町でどれほど有利になるか……あんたがよくよく理解していることを信じています。では、続きは後で。お父さん、調子はどうですか?」
父は青白い顔で小さく頷く。母が父の汗をぬぐいながら乱れた布団を整えるのを見て、もしかしたらこれが最後かもしれないと考えながら、僕は父の部屋を出た。そしてすぐに母も部屋から出てきて、不機嫌な表情を浮かべて小声で僕に言う。
「いつになったら、智子ちゃんに言うの? 具体的な日付を教えてちょうだい」
「今夜言います。智子さんと約束もしています」先ほど智子さんと話す約束していたことを思い出し、僕は咄嗟にそう答えた。目の前にある母の嬉しそうな顔がさっきの智子さんの笑顔と重なった。正座して僕を見下ろして、嬉しそうに顔を輝かせる彼女を思い出して、僕は胸が痛くなった。
「まあ、ちゃんと準備していたのね! 良かったわ」母は嬉しそうに微笑む。こういう政治的な成功を素で喜べる神経が、僕にはまだわからない。しかし、家の後継ぎになるとはきっとこういうことなのだ。今日までにそれを割り切り、そういう人にならなくてはならなかったのに、僕は未だそれができていない。これは完全に、僕の怠慢だ。農家を継ぐというのは中途半端な覚悟ではいけなくて、僕がしっかりしていないと多くの人を赤字で苦しめる羽目になる。十分なお金を稼ぐためには、利用できるものはなんでも利用しないと失敗してしまう。むかし父に言われたことだ。しかし、僕はまだそれを完全に受け入れられていない……
「それじゃあ、これを渡しておくわ。くれぐれも慎重にね。ここまで固めてきたのに、あんたの不手際で逃げられたら、たまったもんじゃないわよ」
母さんは手提げから小さい箱を2つ取り出して僕に渡す。中身は何となく想像がついたが、念のため開けて確かめる。どちらの箱にも指輪が入っていた。片方はもう片方の2倍くらい大きかった。僕は母の顔を見て、黙って頷くしかなかった。
「きちんと、後継ぎとしての責務は果たします」
僕がそう言うと、母は小さく微笑む。「頼みますよ。これでお父さんも、安心してくれるでしょう」
期待している、と言っているような表情は見慣れたものだが、何度見ても、見る度に心が重たくなるのであった――
夕食が食べ終わると、僕はいつも通り自室にこもって仕事をする。やるべきことはたくさんあった。相続とか組合との協力とか、また経理とか、農業の勉強とか。どれも重要なものであるが、僕はどの仕事にも集中できず、手を付けては飽きてやめるということを繰り返し、悪戯に時間を浪費していた。
頭の中では仕事とは全然別のことを考えていた。智子さんのこれからについて、色々と考えていた。考えている内に、彼女に対する申し訳なさが募った。
彼女をこの土地に連れてくる時、高野農場のスタッフとして迎え入れる時、簿記は農作業の効率化のためと両親に説明したし、自分にもそう思わせていた。しかし、うちが主にやっている果樹栽培をするにあたって、高身長であるメリットはほとんどない。その理由は、作業者の身長に合わせた樹木づくりをするからだ。ネットなどを用いて枝に圧力をかけて、上方向に伸びた枝を選定し、水平方向に伸びていくようにする。果実が付くとその重みで枝が折れてしまうので、その時期になると支え棒を使う。もちろん、枝は太陽の方向に伸びたがるので高い所にも実が付くし、それを収穫するのに背が高いのは便利なのは本当だ。しかし基本は脚立などを使わない程度に低い位置での作業だし、高くても230cmくらいにしかならないようにうちの果樹は調整されている。智子さんほどの高身長を活かすのなら、果樹栽培よりも林業の方がきっと良かっただろう。その手の知り合いはいるし、その気になれば智子さんを紹介できた。
それならどうして僕は智子さんを連れてきてしまったのだろうか。いや、もっと昔のことを思い返せば、なぜ僕は家庭教師の頃に自分で智子さんの引きこもりを解消しようとして、弟になるなんて馬鹿げたことをしたのだろうか。あの手の問題は普通、心療内科の思春期外来のような、専門家に任せるものだ。素人が手を出すべきではないということは、当時の僕も知っていたと思う。兄が引きこもった時にそうだったから。なのにどうして自分で治してみせるなんて気を起こしたのだろうか。若気の至り、傲慢さというのもあったと思う。しかし当時の気持ちを正確に思い出すほどに、その頃から自分の中にあった『智子さんの特別になれれば』との下心を認めざるを得ない。つまり、純粋な善意ではなく、下心だったのだ。僕らの関係を1日でも長く続けられるように、智子さんと彼女の両親に気に入られるためにという邪な動機であった。
しかし大学3年生の時に父から、高野家の後継ぎになるためには、多くの人を率いる立場になるためには、情で動くことがやめることが肝心であると習った。そしてちょうどそのタイミングで智子さんも学校に馴染み、姉弟ごっこなんてことはしなくなっていた。
あそこで縁を切っておくべきだったのだ。後継ぎ修行のために実家に帰ったタイミングで、家庭教師もやめておくべきだったのだ。
何度したかわからない後悔をまたしてしまった。これもまた無意味な行動であり、時間の無駄だと思う。しかし、僕はまだ受け入れられていない。もしも僕が智子さんを農場のスタッフとして受け入れることを母に相談していなかったら、その際に智子さんのお母さんの名前を伝えていなかったら、今頃こんなことで悩んでいなかったのかもしれない。
智子さんを、大切な人を我が家の政治に巻き込みたくなかった。普通の道を選べるようにしてあげたかった。高校くらいは卒業させてあげたかった。もっとも、智子さんの方にも色々な考えがあって、僕の提案を受け入れてくれたのだろう。でも、ここまでイレギュラーな人生にさせるべきではなかったと思う。
頭を抱えて机に伏せていたら、ドアが軽くノックされてコンコンという音が部屋に響いた。はっと時計を見ると20時を指していた。
「はい」返事をすると、ドアがゆっくりと開いて、その隙間から正座した智子さんが顔を覗かせる。彼女が今朝言っていた『今夜』が来たのだろう。
「失礼します……今、大丈夫ですか?」
僕は振り返って机の上を見る。書類が色々と散らかっていた。中には、他人に見せてはいけない重要な書類もいくつかあった。それらを片付けながら僕は答える。「はい、大丈夫です。どうぞ入ってください」
「し、失礼します!」
正座した状態でドアを開けた智子さんは、ハイハイで中に入ってきて、部屋の中央あたりで再び正座する。
「あの、お仕事中でしたか?」
「はい、一応」
「じゃあ、終わるまで待っています。お仕事お疲れ様です!」
深々と頭を下げて、ピシッと正座したまま硬直する。以前はもっと近い距離で、勉強したり話したり歩いたりしていたのに、いつの間にかこんなにも距離が開いてしまった。……どうせならもっと開いてくれれば良かったのに、なんて思いながら僕は机に向き直して仕事を進める。智子さんに見られていると妙に精が出て、サクサクと進んだ。この数時間さぼった分を取り返すように僕は仕事を進めた――
どれくらい経った頃か、突然後ろから鼻をすする音が聞こえて僕は我に返った。小さな音だったが、僕の心臓を跳ね上がらせるには十分だった。それくらい僕は、自分を忘れて仕事に没頭していた。そして集中力が切れた今、智子さんは今でも正座をしているのだろうか、鼻をすすったということはティッシュが必要なのではないか、などなど色々な考えが僕の脳を圧迫した。
後ろが気になって仕方が無くなり、僕はペンを置いてゆっくりと振り返る。何を、どういう風に彼女と話せば良いのかわからなかったが、振り返らずにはいられなくてそうした。……礼儀正しく正座しながらも、俯いている彼女と、見えない顔から一粒滴ったそれを見て、僕は瞬時に状況を察した。手元のティッシュを箱ごと手に取って椅子から降りて、智子さんの顔を覗き込む。涙で濡れた瞳を輝かせて、彼女は僕をじっと見つめた。
「お仕事は終わったんですか?」泣き声で尋ねられる。僕は胸を痛めながら、こくこくと何度も頷く。
「はい。お待たせして、本当にごめんなさい。これ、どうぞ。あと、膝は崩してください。しびれたでしょう。そんなに堅くならないでください」
ついさっきまであんなに緊張していたのに、今はスラスラと言葉が出てきて自分でも驚いた。僕がそう言うと、智子さんは脚を伸ばして床に座り、ティッシュを取って半分に折りたたんでから控えめに鼻をかんだ。お尻を地面につけて座る彼女の高さは、立っている僕よりも少しだけ低い。僕は智子さんの隣に立って、彼女をやや見下ろした。
「足りますか? 遠慮しないで使ってください」
「……はい」すると智子さんはティッシュを箱から2枚ほど取って、チーンと音を立てて鼻をかんだ。僕はティッシュの箱を床に置いてから部屋の隅のゴミ箱を傍に持ってきて、その中にちり紙を捨ててもらった。
「すみません、長い時間お待たせしてもらって」
「いえ、だってお仕事ですから。優希さんが大変なのは知っていますから。……今は、大丈夫なんですか?」
「はい、大丈夫です」仕事が残っている、なんて言えなかった。そもそも、急ぎの仕事はすでに終わっている。今やっているのは、あと1週間猶予のあるものだ。……憚らずに言ってしまえば、実のところ智子さんの問題から目を逸らすために増やした仕事を、今までやっていた。
「なら……あ! あの、お時間を取っていただきありがとうございます」深々とお辞儀をする彼女に、僕は首を横に振る。
「そんなに畏まらないでください。今は仕事中ではありませんから、お気楽に。それで……」そこで言葉が詰まる。僕から智子さんに言うべきことがある一方で、元々は智子さんから誘われたのだった。話の内容はなんとなく想像できるから、僕の方から切り出すことも考えた。しかし、やはり不確定である以上は、彼女の話をまずは聞くべきだと思い直した。
「あの、お話というのは、何ですか?」
「はい。えーと……」智子さんは目を瞑って考え込む。僕はピクピクと動く彼女の瞼を見つめながら、じっと待つ。1分くらい経ってから、彼女の唇がゆっくりと動き始めた。
「昨日、お母さまから聞かれました。……優希さんと結婚したいかって聞かれました。私は、『はい』と答えました」
「……ありがとうございます」数秒間、返事に悩んでから僕はそう答える。一番無難な答えだと思ってそうした。
しかしその途端に智子さんは目を見開いてキッと僕を睨みつけて、両手で僕の胴体を掴む。全身がぶるっと震え、身の毛がよだつのを感じた。
「ありがとうって、なんですか! その言い方!」
「え? え、えーと……」意味がよくわからなかった。また、智子さんがここまで感情的に怒ること自体あまりに想定外で、僕は狼狽えるしかなかった。
「あの、優希さんは……優希さんは……えーと……えーと……」智子さんが言葉に詰まり、僕も彼女もしばらく硬直していた。僕は恐怖で体を震わせて、彼女は目と手を小さく震わせながら僕をじっと見つめたり、逆に逸らしたりしながら僕の胴体をがっしり掴んでいた。……不機嫌な彼女を見ることはたまにあった。でも怒った彼女を見るのは随分と久しぶりだった。たぶん、3年くらいは見ていない。
「……すみません、急にこんなことして」そう言ってから、智子さんは掴んでいた両手を脱力させて、腕をだらんとさせる。
「いえ、悪いのは僕ですから」何が悪いのかはわからないけど、そう答える。「失礼なことを言ってしまいました。ごめんなさい」
「いえ、いいんです。……あの、多分まだお仕事あるんですよね。私がいるから終わったって言ってくれただけで。……じゃあ、私出ていきますから。お仕事お疲れ様です!」
「いえ、本当に終わっていますから!」立ち上がろうとして床に手をついたの腕を掴んだ。「僕の方はもう大丈夫です。急ぎの仕事はもう終わっています。だから……ゆっくりお話しましょう」
震える瞳で僕を見上げる智子さんの肩を掴んで、僕は彼女を説得する。今の彼女の姿勢は、床にお尻を付けた状態で僕の方に体を左に曲げていて窮屈そうだ。僕は思い切って彼女の膝の上に正座した。……ゆっくりと、彼女の大きな手が、僕の背中を圧迫する。母親に甘える2歳くらいの子供のように、僕は今、智子さんと向かい合っている。
「あの、えーと……」
顔を赤らめながら目を泳がせる彼女を見上げながら、僕は目を細めて彼女の後頭部をさすった。「ゆっくりで大丈夫です。ゆっくりで」……なんだか懐かしい気分になる。彼女がまだ中学生だったころ、僕が弟を演じていた時に感じた安らぎだ。また彼女とこんなことができる日が来るなんて、今の今まで想像もしていなかった。
「あの」
「はい」
「その……」
「……はい」
「優希さんは、私と結婚したいですか?」
「……」泳いでいた視線を、最後は真っすぐ僕に向けて彼女はそう尋ねてくれた。さっきまで赤かった顔は、今は青白くなっていた。……予想はしていたものの、実際に本人から聞かれると、頭の中が混乱してしまう。僕はしばらく黙り込んで、彼女から目を逸らして答える。
「ごめんなさい、わかりません」
「そうなんですね」
「でも、これだけは言わせてください」膝立ちになって身を乗り出し、彼女の瞳の中を覗き込む。前々から言いたかったこと。しかし、勇気が出なかったこと。……今しかないと思った。流れに任せて、僕は全てを話してみせようと思った。
「僕は智子さんが好きです。好きだから、結婚したいかと聞かれると、とても複雑な気持ちになるんです」
「え?」智子さんは頬を朱色に染めてから、ゆっくりと首を傾げる。「ごめんなさい、どういうことですか?」
「うちの結婚は、たぶん智子さんが思っている結婚とは違います」真剣に、彼女の目を見ながら僕ははっきりと説明する。さっきまでの臆病風はもうどこかへいってくれたようで、ここには生身の僕が、高野家跡取り候補としての高野優希が残されていた。
「うちに嫁ぐということは、古く悪しき慣習を受け入れることなんです。今は、3組あれば1組が離婚している時代ですが、うちの場合は一度結婚したらもうそれで終わりです。結婚とは、家と家の契約です。家の地位を下げないような、可能であれば上げられるような相手と結婚するんです」
僕はそこで言葉を切る。智子さんは真剣に、しかしよくわかっていない様子で僕の話を聞いている。それを確認してから僕は話を続けた。
「……いえ、正確には1つだけ例外があります。子供が作れない体になった場合です。『役立たず』と言われて離婚させられます。なので、妊娠したことを確認してから入籍するのが我が家の伝統です。ここまでは、理解してもらえましたか?」
「は、はい!」智子さんは勢いよく首を縦に振った。……しばらくして、彼女の顔がぽっと赤くなり、目が輝いた。妊娠とか結婚とかいう言葉に浮かれているのだと思って、僕は悔しくなった。これから話す内容は、決して幸せな話ではないはずなのに――
「……智子さん」
「はい!」口角を上げて、ワクワクしている彼女を見て心が痛む。
「昨日、母から僕との結婚について尋ねられましたよね?」
「はい! お母さまから、優希さんと結婚したいかって。私は『はい』って答えました」
「なんで、母が智子さんを僕の結婚相手に選んだか、わかりますか?」
「え?」キョトンとした表情で彼女は僕を見下ろした。僕は胸の痛みを抑えながらさらに追い打ちをかけた。いつかはやらなくてはならないことだからと、自分に言い聞かせて。
「結婚とは家と家の契約です。うちはそれなりに大きい農場を経営していますから、結婚を含めた僕の人生における選択は、多くのスタッフの生活に影響します。……ではなぜ智子さんが選ばれたのか、ご存じですか?」
「い、いえ……」
「それは智子さんが八尺家の人間だからです」
「え?」
意味がわからないといった様子で、首を傾げながら、視線をあちこちに動かしながら困惑している。……僕も最初は知らなかった。でも本当だった。智子さんの母親は現八尺家当主の娘の1人で、つまり梨緒さんの従姉妹にあたる。去年、智子さんをスタッフとして雇いたいと母に相談した時に発覚した。こんな偶然があるなんて想像もしていなかった。しかし本当に起きたことだ。
「えーと、どういう意味ですか?」
「智子さんのお母さんが、八尺家の人間です。言い換えれば、梨緒さんは智子さんの従姉妹です」
「え? ……ええ!」智子さんが目を丸くして口元を手を右手で押さえた。「そんなこと、お母さんから聞いたことないです」
それについては、僕も疑問だった。なぜ智子さんの両親は彼女の門出の際、家系のことをよく話さなかったのだろうか。……破門にされているから、お母さんも実家のことを思い出すのが辛かったのだろうか。八尺家では200cmに満たない女子は破門にされる。ただ、それでどうして八尺家ゆかりの地で勤めることになった智子さんに事情を説明しなかったのかはわからない。
でも、今は関係ない。僕が知っていることを、包み隠さず誠実に話そう。
「でも、本当のことなんです。智子さんの両親が隠していた理由はわかりませんが、智子さんは八尺家の人間です。そして八尺家には、近縁で最も背の高い女子が跡を継ぐという伝統があります。実際には色々と血縁の問題があるそうですが、智子さんは八尺家次期当主の、かなりの有力候補というわけです」
「えーと……すみません、なんか急すぎてよくわからなくて」
「簡単にまとめると、つまり……僕が智子さんと結婚しようとしているのは、智子さんが偉い人だからです。地位が高い人だから、家の権力をあげるために結婚するんです。歴史の授業で、藤原氏が天皇の娘と結婚して権力を高めていったという話、覚えていますか?」
「はい。一応」
「大体そんな感じです。別の言い方をすれば、玉の輿とか、政略結婚と言うわけです。つまり、言いたいことは……」疲労を感じながら、僕はそれを振り切って頭の中で話をまとめて、一気に話す。
「僕との結婚には責任が伴い自由がなくなるということです。それは入籍に伴う法的な責任以外に、家の伝統に縛られてしまうということです。智子さんはうちに来てまだ1か月くらいですから、きっと我が家の嫌なところが分かっていないと思います。またこんな田舎ですから、出会いもないでしょう。さらに高校に進学しなかったことで現代的な青春も経験していません。そんな智子さんにとって、このタイミングで結婚を決めてしまうのはとてもリスクある選択だと思います。別の道を歩んでいれば、これから色々なことを経験して、考え方も変わっていくと思います。でも、うちとしては是非とも結婚してほしい。しかし、僕個人としては、智子さんにせめて18歳くらいまでは標準的なレールに乗ってほしい。……今ならまだ引き返せます。どうしますか? 僕は身内から怒られるでしょうが、心配は要りません。智子さんの人生の方が大切ですから」
話している間に智子さんの表情が無くなっていく。悩んでいるわけでも楽しんでいるわけでもない、よくわからない表情で僕をじっと見つめている。
僕は最後に伝えたいことを口に出す。
「智子さんに不幸な思いをさせてしまうくらいなら、僕は貴女と結婚したくないです。智子さんのためというのもありますし、そんなことをしたら僕は多分一生そのことを気にして不幸になってしまうと思います。家族は政治的な意味で僕と智子さんの結婚を散々勧めていますが、僕個人の意見としては、15歳の貴女をこんな政治に巻き込みたくないんです」
「えーと、えーと……」目を瞑って顔を赤くして彼女は考える。急にこんなことを言われたら困惑するのは当然だ。でも僕にはもう時間が無いし、イエスにしろノーにしろ回答を報告しなきゃいけない。……もっと早く言っておけば良かったのかもしれないけれど、僕が智子さんの家柄について知ったのも、智子さんがここに来てからだった。つまり、僕の方も心の準備に1か月くらいしか経過していないのだ。それに、彼女の件以外にも仕事が色々あった。言い訳だと思うし、そういう状況でも彼女のために奔走するのが本当の愛なのかもしれないが、僕にはできなかった。
「あの、優希さん……」
「はい」瞳を震わせながら智子さんは口を開く。
「……あの、全部本当のことなんですよね。私が梨緒ちゃんの従姉妹っていうのも、優希さんの事情のことも、そして……優希さんの意志も」
「はい。伝えるべきことは全部伝えたつもりです」もっとロマンチックな言い方があったかもしれない。でも、向こうがどういう考え方をするかがわからない以上は、僕はありのままに伝えるべきだと思った。それがせめてもの誠意だと思った。
「それってつまり、私と優希さんが結婚するといいことがあって、そして……優希さんも私のことを好きでいてくれるってことですか?」
「えーと、まあ、平たく言えばそんな感じだと思いますが……」家柄とか政治とか政略とか色々大事なことが抜けている気もしたけれど、わかりやすくするために僕は頷いた。
しかし智子さんはキッと僕を睨みつけた。
「はっきりしてください!」智子さんが脱力させていた両腕で急に僕をぎゅっと抱きしめる。肺が圧迫されて「うっ」という声と共に口から息が漏れた。
「優希さんは、私のことが好きなんですか? 私と結婚してくれるんですか?」
「は、はい!」智子さんの激しい口調に流されて、僕は声を上げて返事する。「もちろん、智子さんが良ければの話ですが」
「私は優希さんと結婚したいです!」真っすぐ僕の目を見て答える。彼女の険しい顔つきから、その決心しきった様子を感じ取る。「優希さんのことが好きですし、ずっと一緒にいたいです。確かに私は子供かもしれませんし、もしかしたら1年後には考えていることが変わっているかもしれません。でも……」
困った表情を浮かべて言葉を切る。腕の力が弱まって僕の肺に空気が入る。僕は彼女が口を開くまでじっと待った。
「……あの、優希さんは私のこと、子供だと思っていると思います。実際、私は子供です。でも……私ももうすぐ結婚できますし、ちゃんと子供だって作れるんですよ。こんな体ですけどちゃんと女性なんですよ。だから、あの……」
僕のことを再びぎゅっと抱きしめた。小さな涙が彼女の瞼から落ちた。
「ですから……大丈夫ですから! 私は優希さんが大好きです。優希さんと一緒になれると思うと、凄く幸せなんです。幸せすぎて、こんな私がこんなに幸せになれるって思うと、怖くて押しつぶされそうになりそうなくらい幸せなんです。だって私は……」
乾いた笑いを浮かべて、ふっと小さなため息をついてから、彼女は口を開いた。
「だって私は、人間じゃないから」
「ん? ……どういうことですか?」急な告白に驚いて尋ねる。すると彼女はやや意地悪な笑みを浮かべて腕の力を弱めた。
「……あの、続きは私の部屋で、一緒に横になってしませんか? もう遅いですから、いつでも寝られるように、お話しませんか?」
「えーと……はい、いいですよ」度重なる急な提案に僕は首を傾げるが、なんとなく承諾する。時計を見ると21時半を指そうとしていた。知らない間に僕らは1時間30分も話していたらしい。
「じゃあ、えーと……優希さんはパジャマに着替えるんですよね?」
「はい、これから寝るわけですし」
「じゃあ、着替えたら私の部屋に来てくれませんか? そこでお話しませんか? 私の布団は大きいから、途中でどちらかが眠くなってもすぐに寝られます」
にっこりと微笑む彼女に、僕は機械のようにこくりと頷く。すると智子さんはハイハイでドアに向かい、くぐって僕の部屋から出ていった。……急に部屋が静かになった。僕は急いで寝間着に着替えた。部屋を出ようとした時、昼に母からもらった箱のことを思い出してそれを手提げに入れてからドアを開けて部屋の電気を消した。
智子さんの部屋は、元々物置になっていた部屋を改造したものだ。居間や玄関よりも少し離れたところにあるが、僕の部屋より面積も広く天井も高く、智子さんの体型には丁度良い作りとなっているらしい。手提げを胸に抱えて、僕は普通サイズのドアを軽く叩く。智子さんの返事が聞こえたので、僕はゆっくりドアを開ける。
「優希さん、こんばんは!」
布団の上に正座して柔らかい微笑みを浮かべる彼女に会釈してから、部屋を見渡して僕は思わず驚いてしまった。久しぶりに入る、元物置。改造されてからは来たことがなかったが、その変わりようは想像以上だった。中にあった瓦礫の山は全て払われて、代わりに智子さんのための居住スペースができている。彼女が使うであろう大きな座卓と座布団が部屋の真ん中にあって、服を入れるための箪笥などの家具も置かれている。むき出しだった窓にはカーテンがかけられていて、その下には巨大な布団が敷かれており、そこに彼女が正座していた。
「こんばんは。えーと、そろそろ眠いですよね?」何か適当なことを言おうとして出てきたのがこの台詞だった。智子さんは微笑みながら首を縦に振ってくれて、僕はホッとしながら敷布団の方へ、彼女の方へと向かう。
「あ。それ、なんですか?」僕の手提げを指さして言った。「もしかして、まだお仕事が残っていましたか?」
「いえ」しゅんとした表情を読み取って僕は咄嗟に否定する。そして中から箱を取り出し、中身を確認してから智子さんに差し出した。「あの……明日の朝になったら、この箱を開けてみてください」
彼女は小さな箱を両手で受け取り首を傾げる。頬がわずかに紅潮したような気がした。うずうずしながら、僕を見下ろして眠たそうな目で語りかけてくる。「あの、いま見ちゃだめなんですか?」
「それは智子さんの自由ですが、できれば明日にしてほしいです。急いで良いことはないので」箱の中にあるそれをはめてしまった瞬間、またそれを母が見た瞬間、僕らの関係はほぼ確定してしまう。さっき話しあった以上は、双方同意の上での結婚となるわけだが、弱冠15歳の彼女にその決定を委ねて良いのかとの不安が僕の中で再燃していた。
せめて、一晩考えてもらってから決めてほしいと思った。
「それなら、明日見ます」彼女はその箱を大切そうに抱えて、膝立ちの状態で座卓まで向かってそっと座卓の上に乗せる。それから再び布団の上で正座した。
「じゃあ寝ましょうか」僕がそう言うと智子さんは微笑を浮かべて小さく頷き、敷布団に横になる。掛け布団を下半身だけに掛けた状態で、僕のことをじっと見据えた。僕は手提げを座卓の上に置いてから布団に入った。そっと上から布がかけられて、僕らは10cmくらいの距離で顔を見合わせた。さっきまで僕の胸を覆っていた不安や罪悪感が一気に吹き飛び、今の状況に興奮して顔が熱くなるのを感じた。それは彼女も同じなのか、頬を赤くして僕から目をさっと逸らした。僕の方も同じことを同じタイミングでした。
「電気消しますね」
「……はい」
智子さんの体が動き、距離が一瞬だけさらに近くなり、ふっと電気が消える。いま気が付いたことだが、この物置部屋はいつの間にかリモコン式の照明に取り換えられていたらしい。……そんなどうでも良いことで気を紛らわせてみたが、真っ暗でも智子さんの姿はうっすらと見えてしまうし、目を閉じても彼女の息吹や体温が感じられて、電気を消す前よりも一層緊張する。
僕は興奮を抑えるために口を開く。瞬時に頭に浮かんだのは、少し前に聞いて、僕の中で引っかかっていたあのセリフである。
「あの、さっきの話ですが。智子さんが人間じゃないって、どういう意味ですか?」
「だって私、身長270cmもあるんですよ」
「え……はい、知っています」
「だから、そういうことです」
……最初は意味が分からなかった。しかし次第に、彼女の言っていることが理解できそうな気がした。改めて考えてみれば智子さんの高身長はあまりに常識外れだ。昔から八尺家と関わってきたせいかあまり意識したことはなかったが、確かにそうだ。そういえば初めて出会った時も智子さんは自分の背の高さにコンプレックスを抱いて、不登校になっていた。明るくなった後の智子さんに見慣れすぎて、そんな過去を今の今まで忘れていた。……記録上最も背の高い男性が272cmと聞いたことがあるが、智子さんはそれに匹敵する。女性だったらもしかすれば世界一かもしれない。しかも彼女はまだ中学校を卒業したばかりだ。それを考えると、先の彼女の発言は、彼女くらいの年齢の女性が抱く感情から発されたものとしては……いや、年齢なんて関係なく、女性として、もっと言えば人間として自然なものなのではないかと思えた。
「でも、智子さんは人間ですよ。象でもキリンでもなくて、普通に、人間です」僕は慌ててフォローする。そうしなければならないと思った。政略結婚に伴う不都合とか彼女の未来の幸福とかばかり考えていたが、智子さんは昔からその体躯のために苦しんでいたのだ。そして、今も苦しんでいるのだ。そう考えた時、僕はまず第一に、現在進行形で彼女が抱いている問題について考えなくてはならないと思った。
僕が最後に発言してから数秒後、ふふっと小さく笑う声が聞こえる。「ありがとうございます」
「謝る必要なんてありません」暗闇でも彼女の目が見えるくらい僕は近づいた。何も見えなかったけれど、近づいたせいで顔がわずかに暖かくなるのを感じる。「智子さんは普通の女性です。少し背が高いだけで、普通の人間です」
「少し、っていうのは違うんじゃ……」
「でも、今こうやって僕と一緒に寝て、一緒に会話しているじゃないですか。結婚だって書類を役所に出してしまえばできますし、さっき智子さん自身が言ったように子供だって作れる。どうして人間じゃないなんて言うんですか?」
……沈黙が続く。カーテンから漏れる月明りで彼女の表情を探ろうとしたが相変わらず何も見えない。ただ、彼女の輪郭が揺らいだのが、布団を伝ってきた振動と合わせて確認できた。
「優希さん、失礼します――」最後まで言い終える前に智子さんの大きな手が僕の右脇腹と布団の間に入りこんで、その反対側にもう一方の手が添えられて、体がくるりと回転する。一瞬、何が起こったのかわからなかった。しかしいま僕は智子さんの体の上に乗っかっているのだと気が付いた。……なぜか、とても安心した気持ちになった。そして僕の体が上から優しく圧迫されるのを感じた。
「すみません、しばらくこうしていてもいいですか? 私、すごく怖いんです」手を震わて、また声を震わせて言った。その振動が僕にも伝わってきて、またなんとなくとても申し訳ない気持ちになった。
「はい、気が済むまでそうしてください」
「ありがとうございます。……あの、優希さんが色々話してくれたので、私も色々話していいですか?」
「もちろんです」
「あの……本当に申し訳ないと思うんですけど」……長い沈黙が流れる。彼女の鼓動が僕の体にも伝わってきて、それが時間の流れを教えていた。
「あの、さっき私、優希さんに好きとか結婚したいとか言いましたけど……本当は多分、そうじゃないんです。いえ! そうじゃないっていうのもたぶん違うんですけど、なんていうか、よくわからないんです」
好きかよくわからない。その手の問題は僕も彼女くらいの年齢の時にはよく考えていた。……ふっと梨緒さんの顔が頭に浮かぶ。中学時代、当時同じくらいの背丈だった梨緒さんを同級生と勘違いして一目ぼれしたことがあった。その後、梨緒さんが7つも下であり、さらに八尺家であるため家柄的に関われないことをを知って冷めた。そして、その程度であんなに好きだった梨緒さんをすぐに飽きることができた自分に驚き、悩んだ。僕の恋愛感情は何だったのかと、……そんなことを、今ふっと思い出した。
「なんというか、私は安心したいだけなんです! 昔から巨人とか言われていたし、実際本当に大きかったから、こんな私は普通の人みたいになっちゃいけないんだと思っていました。でも……優希さんのお陰で、学校も行けて卒業もできて、お仕事も紹介してもらって。全部全部、優希さんのお陰なんです。でもそしたら、優希さんに嫌われちゃったらもう私は生きていけないんじゃって思っちゃって。だから……安心したいだけなんです。優希さんと結婚すれば、もう身長のこととか将来のこととか考えなくてよくなる気がして……」
彼女の嘆きに、僕は一々「うん、うん」と頷きながら聞いていた。少々複雑な気持ちになったが、同時に智子さんの本心が聞けた気がして嬉しかった。……いま話してくれた内容が本当なら、彼女も僕と同じ、と言えるのかもしれない。僕は家の都合で智子さんと結婚するのが好都合であり、智子さんにとっても僕の家にいることが好都合なのだろう。
まさに政略結婚、ウィンウィンの関係ではないか。とても有難いと後継ぎとしての僕がニヤリと微笑む一方で、これが最善なのかと臆病になる僕がいる。……でも、智子さんも僕との結婚について、現実的な問題を踏まえた上で彼女なりにしっかりと考えた上で導き出した答えであるという事が分かって安心した。と同時に、不安にもなった。もしも高野農場を僕が潰してしまったら智子さんはどうするのだろうか。もっともこれは智子さんに限らず全スタッフに関係する問題なわけだが。
「……優希さん、寝ちゃいましたか?」彼女の声が聞こえる。僕は小さく首を振った。
「いえ、起きています。智子さんも僕と同じだったんですね」
「え? どういうことですか?」
「智子さんは安心したいから結婚する。僕は家の都合で結婚する。好きだからとかじゃなくて、今の状況に対する一番良い選択がそうであってという、そういうことです」
「あ、あの。あんなこと言っちゃいましたけど、好きですよ! 優希さんのことはちゃんと、好きです。ずっと前から好きでした!」
「ありがとう。僕もです」
「え……あ、ありがとうございます!」戸惑っている様子が目に浮かぶ。長時間人肌に包まれていたせいか、心拍数がいつもよりも少ない気がする。リラックスして眠くなった頭が、思いついたことを何も考えずにそのまま吐き出す。
「でなきゃ、果樹園なんて紹介していなかったと思う」
「え?」
「もうお気づきだと思うんですけど、果樹園の木って低いでしょ。作業しやすいように僕らの身長に合わせて木を低くしているんです」
「あー、先輩に教わった気がします。あと農薬散布を車でしたいからとか」
「うん、そう。だから智子さんくらいの高身長を活かすなら、農業よりも林業の方がいいんです。そっちの知り合いも僕にはいます。でも僕はあえてうちの果樹園を紹介したんです」
「え、どうして?」
「智子さんと一緒に居たかったから。智子さんが好きだから。だから、無茶しちゃいました。自分勝手ですみません」
「わ……うわぁー!」
ぎゅっと体に圧力がかかり、寝ぼけていた頭が一瞬覚醒した。そしてすぐにまた元通りになった。覚醒した頭がさっきの自分の台詞を恥じたが、すぐに睡魔によって支配された。
「智子さん、おやすみなさい。明日も仕事がありますし、お話する時間は、これからはたくさんあります」
「は、はい!」
ぎゅっ、と少しばかり体が圧迫されたのを感じたが、僕はとうとう眠気に打ち勝てなくなってそのまますーっと眠りの中へと吸い込まれていった――
――体内時計が、僕に起きろと囁いた。
寝返りを打って薄目を開けると、そこは自分が見慣れている場所ではなかった。どこだろうかとぼやけた視界で周囲を確認すると、随分と広い場所であり、その中央に人が布団の方を向いて正座して、何かをしていることが分かった。
「あ、優希さん。おはようございます!」
視界が段々と鮮明になり、また声からその人が智子さんであることが分かった。どうして智子さんがここに……と考えた瞬間に昨夜の出来事が思い出された。部屋で作業をしていて、智子さんと色々話し合って、それから智子さんの部屋で一緒に寝たんだった。寝る前に何をしたのかが曖昧だが、さすがにそういう行為までは進んだはずはない。それならもっと強烈な印象として残っているはずだ。
「おはようございます、智子さん」
「ふふっ。おはようございます」
腰をやや浮かべて布団の方に近づき、枕の隣に何かを置く。体を起こしてそれを確認してみると、僕の普段着と農作業用の作業着だった。
「今日は農場には行かないってお義母さんから聞いたんですけど、もしもと思って両方持ってきました」にっこり笑って、彼女はそう言う。最近はあまり智子さんが笑うところを……いや、智子さんの表情自体をあまり見ていなかったことを思い出した。そして昨日、彼女の色々な表情を見たことを思い出した。にこにこしている彼女を見上げながら、僕は壁の方を向いてパジャマから普段着へと着替える。
着替えている間に、僕は昨日のことを色々と思い出してきた。智子さんに僕の事情について話したこと、また智子さんの悩みについて教えてもらったこと。お互いの気持ちについて話し合い、結婚について同意したこと、等々。……色々と急になってしまったと思うが、この問題については一歩話を進めることができてよかった。まずは、今から智子さんの気持ちを確認しなくてはならない。昨夜の気持ちが一晩経って変わってしまうことなんて普通にある。
僕はセーターを着終えてから智子さんの方を振り返る。……彼女は正座したまま口をぎゅっと結んでじっと僕を見つめていて、戸惑った。戸惑いながら僕は口を開いた。
「えーと……昨日のことって、覚えていますか? 寝る前に話したことです」
「は、はい! もちろん覚えています!」顔を真っ赤にして彼女が言った。そんな表情を見ていると自然と自分まで赤くなってしまう。僕は彼女から目を逸らして机の上の手提げに目を落として話を始める。
「まあそのつまり……僕には色々と事情があって、それはきっと智子さんも同じで、昨日はそういうことを話し合ったと思います。そういった事情を色々考えた上で僕との結婚を承知してくださるのなら」手提げの中から箱を取り出そうとした……が、箱が1つしかなかった。僕は昨日のことについて数秒間思い返し、昨夜この部屋に入った時にすでに智子さんに渡していたことを思い出す。僕は自分の箱を手に取って、智子さんを見る。
「昨日、これと同じ箱を渡したと思います。あの中には智子さんの結婚指輪が入っています。智子さんの気持ちが確かなら、はめてください。そして一緒に母のところに行って報告しましょう」
僕が話し終えると、彼女はふふっと顔を綻ばさせてから左手を顔の前下で上げて、僕に手の甲を見せる。……そこにはすでに銀色のマリッジリングがはめられていた。
「ははっ――」脱力した笑いが僕の口からこぼれる。今の時間は何だったんだろう? 彼女はもうずっと前からそうしていたのだ。何時に起きたのかは知らないけれど、少なくとも僕の目が覚めるよりも前に、おそらく彼女が起きてすぐに。
僕は箱から指輪を取り出し左手の小指にはめて、彼女と同じポーズをとる。向かい合って左手の甲を見せ合う。女は正座して、男は立った状態で。傍から見れば随分とおかしな様子なのかもしれないが、僕はいま幸せに包まれている。夢なのか、と思ってしまうほどに胸が温かく、頭がふわふわとしていて、意識が曖昧になる。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい!」彼女の笑顔が僕の心を揺さぶる。智子さんが立ち上がり、僕は自分の肩の高さにある彼女の大きな手を掴んでドアに向かう。相対的に小さなドアを慣れた調子でくぐる彼女を見上げて、僕らは母の部屋に向かう。
「智子さん」向かう途中、彼女を見上げて話しかける。楽しそうな笑顔で、彼女は首を傾げた。「はい?」
色々と言いたいことがあった。将来のこととか、子供のこととか。でも、それをいま言うのは不適切だと思い、僕は首を横に振る。「……いいえ、何でもありません。ちょっと、呼んでみただけです」
「そうですか? ……ふふっ」柔らかい微笑を返してくれて心が溶けてしまいそうになる。さっきの不安が霧散する。……いつまでこの関係が続くのだろうか、なんて暗いことを考えられる気分でもとてもないらしい。こんなに気分が高揚したのはいつぶりだろうか。もしかしたら人生で初めてかもしれない。それくらい僕は今の状況が幸せだった。
……でも、いずれは考えなくてはならない。智子さんには、僕のものとは違う智子さんの人生があるわけだし、現実問題として夫婦の3割は離婚するという。他人のことはよく知らないが、きっと離婚した夫婦も大半は、今の僕らみたいに幸せ絶頂な時期があったのだと思う。それでも3割は離婚するのだろう。
「優希さん」
「うん?」見上げると、彼女はニコニコと微笑んでいた。
「どうしましたか?」
「ふふっ。呼んでみただけですよ。うふふ」
繋いでいない方の手を口元に当てて彼女は上品に笑った。僕は自然と目が細くなり、口角が上げていた。これからどうなるかなんて全くわからないけれど、今はこの幸せな時間を噛みしめたい。そしてできるだけ長い時間、こんな時間を過ごせるようでいたいと僕は切に願った。