高野智子の話
お日様の光を肌身に感じながら瞼を開けます。広い部屋。私のための広い部屋。ここで暮らし始めてからもうすぐ半年が過ぎようというのに、どうしてか最近は一層広く感じてしまいます。こんなに広い部屋にひとりぼっちでいると、時々とても寂しい気分になってしまうのですが、それは私だけの秘密です。
特別に作ってもらった大きなお布団を畳んで、下着を着てシャツを着てスカートを履いて、最後にセーターを着ます。最近はすっかり寒くなってきました。家の中でもセーターは必須です。どれも実家にいた頃に作ったものですが、とても重宝しています。両親に感謝しながら私は着替えを済ませました。
少しその場でじっとしてから、押し入れにしまっていたバッグからノートを取り出し、中をぱらぱらめくります。実家を出てこの家に来るとき、私が持ってきたものは2つあります。1つは衣服で、もう1つはこのノートです。見た目は普通の学校のノートですが、中身は中学生の時につけていた日記です。色々な出来事がつづってありますが、私が一番見たかったのはこのたった3行のお手紙です。
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拝啓 高野先生
好きです。
かしこ 前山智子
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2年も前に書いたものですが、今でも読み返す度に顔が熱くなってしまいます。先生だった頃の優希さんに向けて、教え子だった頃の私が書いたラブレターの下書きです。あの頃は、今みたいになるなんて夢にも思っていませんでした。一緒に暮らすようになって、婚約までしたというのに、未だに実感が湧かなくなる時があります。とても幸せなはずなのに、幸せを幸せだと認められなくなる時があります。自分でもよくわからない、不思議な気持ちです。
今の時期、私たちの果樹園はとても忙しいです。収穫とか出荷検査とか品評会とか、スタッフも経営者も日々あくせくと働いています。特に経営者の優希さんは毎日夜遅くまでお仕事をしています。少し前まで私たちは毎日一緒の布団で寝ていましたが、最近はそういうわけにもいきません。でも、事情はわかっていても、寂しくなってしまうときはあります。すると今みたいに日記を読み返して自分を慰めるのです。日記には嫌な事もたくさん書かれていますが、そんな時はいつでも優希さんに助けられて、読んでいて段々と嬉しくなってきます。
でも、同時に悲しくなります。今の私は日記の中の私のように中学生ではなくて、もうすぐ家庭を持つかもしれない女性です。大人にならなくてはいけないと思います。でも時々、私が中学生だったら優希さんは私にもっと優しくしてくれたのかしら、構ってくれたのかしらと考えてしまうことがあります。
日記を閉じて、ため息をついてから、私は薬を持ってトイレに向かいます。今日で予定日から7日目なので、もう使えるはずです。この薬を使うのは3回目です。みんなが使うトイレに入って、検査キットを袋から取り出してキャップを取り外し、正座をして採尿部に尿をかけて、またキャップをして赤い線が浮かび上がってくるまで待ちます。使うたびに2つの意味で緊張します。1つは、陽性だったら嬉しいなというもの。もう1つは、どうせ陰性かなという諦めです。線が1本なら陰性、2本なら陽性ですが、私はまだ陽性を見たことがありません。
トイレの閉そく感を感じながら、結果が出るまでじっと待ちます。この間にノックされたら申し訳ないなと思いながら、じっと待ちます。そして物思いにふけります。今日の作業とか、優希さんのこととか、妊娠のこととかを考えて不安になってしまいます。子供ができない体質というのもあるようですが、もしも自分がそうだったらと考えるととても恐ろしくなります。だってそうなったら優希さんは別の女性と結婚するしかなくなってしまうのですから。このことは婚約前にお話ししましたし、両親や優希さんの知人に相談しても体質的には大丈夫だろうと言われました。でも、出産の時まで上手くいくのかはわかりません。私は身長が270cmもあります。こんなに人間離れした私ですから、そういう状態でも何の不思議もないように思えてしまいます。
頭を振って悲しい考えを振り飛ばします。そろそろ時間かなと思って、手元の検査薬を見ます。そこには赤い線が2本うかびあがっていました。何度も見返しましたが、コントロール部とテスト部の両方に印が出ています。
私は慌ててトイレから出ました。お義母さん? それとも優希さん? ……まずは、パパの優希さんに教えなきゃ! 私は急いで優希さんのお部屋へと向かいました。
病院を受診した時は先生にとても驚かれました。こんなに大きい女性の出産はその病院では前例がないらしく、わからないと言われました。でも、私の出産に向けて色々と準備をしてくれるようです。優希さんもお義母さんも言っていましたが、出産とは普通体型の女性でも1000人に数人くらいの割合で亡くなってしまうくらい命がけのものです。私にできることは、お腹に優しい生活をして、無事に子供が生まれるように最善を尽くして祈るだけです。
妊娠が確定してからは、お互いの家と話をして最終確認をしました。もっとも、全部優希さんとお義母さんが済ませてくれたので、私はよく知らないのですが。そしてこれから優希さんと一緒に役場に行って婚姻届けを出しにいきます。役場が開くのは8時半なので、今日は少しゆったりと朝を過ごすことができます。お義母さんと一緒に農場の皆さんのための朝食を作って、それからはお部屋に戻って優希さんの準備が終わるのを待っています。
なんとなく落ち着かなくて、うずうずしてしまいます。本や資料を読んでも頭に入ってこないので、すぐに読むのをやめてしまいます。私は我慢できなくなってとうとうお母さんに電話をかけてしまいました。妊娠の時に何度も話しましたが、それでも直前になると色々な不安で頭がいっぱいになります。
電話をかけると3回目くらいの呼び出し音でお母さんが出ました。これから婚姻届を出しにいくと言ったら、「おめでとう」と返してくれました。それから、前に話したときと全く同じことをもう一度お母さんと話しました。話しているうちに不安が少しずつやわらいでいくのがわかりました。でも、ある時ふっと涙が出てきてしまいました。隠そうと頑張りましたが、すぐに気づかれてしまいました。
「どうしたの! 嬉しいんじゃないの? 辛いことでもあったの?」
「ううん」
「じゃあどうして?」
「なんとなく」
「辛かったらいつでも帰ってきてね。お父さんも言っていたでしょ」
「うん。でも大丈夫」
「そう。たまには電話ちょうだいね」
「うん」
「体は大事にしてね。ちゃんと食べてね」
「うん。じゃあね」
電話を切ったとたんに我慢できなくなって、その場で思い切り泣いてしまいました。優しくされても悲しくなっても泣いてしまうなんて面倒くさい女だと思いながら、ぽろぽろと涙が流れてしまいます。この世界には嫌な事がたくさんありますが、普段は目につかないところにとても美しいものがあるみたいです。青い鳥は本当に私のすごく身近なところにいるのかもしれません。
「ともこさーん!」
優希さんの声がドアの向こうから聞こえてきて部屋に反響します。私は涙をハンカチで拭って、ティッシュを取ってひかえめに鼻をかんでから返事をしました。
「はーい!」
「役場に行きましょう」
「いま行きまーす!」
私は立ち上がってドアへと向かいました。泣いたことでさっきまでの憂鬱な気分は吹き飛んで、これから始まる新しい人生の幕開けに胸を躍らせていました。
私と優希さんが正式に入籍した今夜は賑やかな夜になりました。優希さんがスタッフさんや仕事仲間の方々と一緒に笑いながらお酒を飲んでいます。一方新婦の私はお義母さんと一緒にお料理を作ったり、食器を片して洗ったりしています。結婚記念パーティというよりは、これも優希さんのお仕事のようです。
私の半分くらいしかない小柄な優希さんがお酒を飲むところを見るのは初めてではありません。最初は驚きましたが、今ではお酒くらいどうってことありません。もっとびっくりすることもありました。私は中学校を卒業したばかりの16歳ですが、優希さんは今年23歳の大人の男性です。毛むくじゃらで筋肉があって、お父さんと同じような体つきをしています。そんな優希さんと一緒に初めて寝た時は怖くなって途中でやめて服を着てしまいましたが、今ではすっかり慣れました。むしろ、大人の人だからこそ安心できるところがあるような気がします。
料理を運ぼうとする時、お義母さんに背中を叩かれました。優希さんが眠そうだからお部屋に連れていってほしいとのことです。本当にいいのかわからなくて確認しましたが、みんな酔っぱらっているので、優希さんがいてもいなくても宴会は盛り上がるから良いと言われました。私は料理を運んだ時に優希さんの肩を叩いて、耳元で一緒に寝ましょうとささやきました。優希さんはしばらくきょとんとしてから時計を見て、微笑みながら頷いてくれました。
「約束したもんね。もう寝ようか」
周りの人はそんな私たちを見て盛り上がっていました。私は赤面しながら優希さんと一緒に今から出て、歩けばふらついてしまうくらい酔っぱらった優希さんの背中を中腰になって支えながら私の部屋まで案内します。
優希さんを、優希さん用の敷布団の上に座らせてから、私は優希さんの部屋にパジャマを取りにいきました。私の両手に収まってしまうくらい小さなパジャマを抱えて部屋に戻ると、優希さんは目を閉じた状態で体だけ起こしてお布団の上でこっくりこっくり船をこいでいましたが、私が入ると目をうっすら開けて私を見上げます。
「おかえり。持ってきてくれてありがとう」
「着替えてください。風邪引いちゃうから」
「うん、智子さんもね。風邪引いたら大変!」
「うん、着替える」
「体調は大丈夫?」
「大丈夫。ありがとう」
パジャマに着替えた後、私たちは電気をつけたまま私の布団の上で横になります。私は優希さんの体を右腕でぎゅっと包み込みました。少し緊張してしまいます。
「一緒に寝るの、久しぶりです」
「最近忙しかったもんね」
「いつもこうなんですか?」
「うん?」
「収穫の秋」
「あー、うん。品評会とか出荷とか色々重なるからね」
「ですよね」
「智子さんは無理しないでね」
「うん、大丈夫」
「よかった」
急に優希さんの顔が近づいて、くちびるが一瞬暖かくなります。私は寂しさが頂点に達し、我慢できなくなって優希さんを持ち上げて仰向けになって、優希さんを胸の上に乗せた状態でくちびるを舌で舐め回しました。お酒の香りが口に広がりました。
「お腹に良くないよ」
「そんなに気にしてたらお仕事できない」
「それはそうだけど」
「優希さんがやったから、お返し」
「そう」
「ねえ優希さん」
優希さんに抱きついたまま、リモコンで部屋の電気を落とします。今なら何でも言えてしまう気がして、今まで隠してきた感情が口からするすると出はじめます。
「寂しいです」
「大丈夫?」
「優希さんが構ってくれないから」
「ごめん、色々忙しくて。ひよっこ社会人1年目。不安だらけ」
「私もお仕事とかお勉強とか大変なのに」
「洗濯とか料理もだよね」
「うん」
「いつもありがとう」
さっきまでの優希さんに対する不満が、今では申し訳なさに取ってかわり、優希さんの背中をさすります。優希さんはそのお返しに私の頭を撫でてくれました。体が暖かくなっていくのがわかります。
「ああ、怖いな」
「どうしましたか?」
「色々。周りは励ましてくれるけど、自分なんかにできるのかなって」
「優希さんならできますよ。だって、頭良くて、努力家で」
「ありがとう。でも皆そう言ってくれるから、プレッシャーが」
「あ」
「兄はダメ、父はもう先が短い。僕がしっかりしなきゃいけない」
「ごめんなさい」
「謝らないで。これは僕の問題だから。……そろそろ寝ようか」
「うん」
優希さんを胸の上から下ろすと、優希さんは自分のお布団に向かったようです。久しぶりに優希さんとゆっくり話せた嬉しさと、ちょっと嫌な事を言ってしまった悔しさを感じながら、また同時に体の寂しさを感じながら、私は目を瞑りました。
仕事をしている時、ふと優希さんと出会った時のことを思い出しました。中学生の時のこと、私が人間不信になっていたころのことです。私の身長は中学校入学時に190cmあって、2年生で230cmくらいあって、3年生で260cmになりました。190cmの小学生というだけで色々な人から悪口を言われていたのに、中学校でさらに大きくなりました。普通になれなかった自分がとても嫌いで、それをわざわざ言ってくる周りの人も嫌いでした。
しかし子供は大きい私を、最初は怖がっても頼りにしてくれました。優希さんと出会ったのはその頃でした。小柄な優希さんを最初は小学生だと思っていましたが、本当は大学生のお兄さんで、最初はとても驚きました。
今も子供は好きです。でも子供以外も好きになれるようになりました。優希さんもお義母さんも大好きですし、他の人も、たまに嫌になる時はありますが、前よりは好きになれたと思います。一時期は、優希さんは誰にでも優しいから、自分が特別じゃないなんて思っていましたが、その後両想いであることがわかってとても嬉しかったのを思い出します。
この世界には嫌な事がたくさんありますが、思っていたよりも優しさであふれているみたいです。悲しみの数だけ、嬉しいこともあるのかもしれません。そんな、目に見えない素敵なものを見つけるために、私は最近、世界のことをよくよく観察するようにしています。
作業をやめてお腹に手を当てます。お腹が張ってきた感じはまだしませんが、赤ちゃんは順調に成長しているみたいです。すこし前に病院でエコー検査を受けたら赤ちゃんの心拍音が聞こえると言われてすごく嬉しくなりました。少し前まで優希さんが構ってくれないことがストレスでしたが、今は赤ちゃんのことで頭がいっぱいです。ときどき起こるつわりは大変ですが、赤ちゃんが順調に育っている証拠だと思うと胸がわくわくします。
ふいに、後ろから肩を叩かれました。振り返ると春香ちゃんがいました。私の背中ではなく肩を叩く人はあまりいないので、なんとなく気づいていました。そういえば最近はあまり話していません。私も忙しかったですし、春香ちゃんもあのあと鶴田さんと色々あったはずです。私たちは一緒に作業しながらお話しました。春香ちゃんは今でも鶴田農場で働いていて、同時に通信制の高校にも通っているようです。普段は仕事の合間や終わりに勉強しているみたいですが、月に1度だけスクーリングと言って学校に通って授業を受けるみたいです。それ以外にも、資格の勉強や、身長を活かしてモデルを目指してみたりと、将来のために色々と準備しているようです。
春香ちゃんの話を聞いている内に、こんなにも早く結婚という道を選んでしまった自分が、なんだか情けなくなってしまいました。優希さんは大学を出ているけど、私の学歴は中卒です。体が異常に大きいことを理由にそういう選択をしたのですが、私よりたった20cmだけ背の低い春香ちゃんはとても明るく将来のことを考えています。心の中で応援しながら、同時に悲しい気分になってしまいました。
私は最近なにをしているのかと、春香ちゃんに聞かれて胸がどきんとしました。しかしちょうどそのタイミングで梨緒ちゃんがこちらに向かってきました。そして開口一番、私の結婚のことを祝ってくれました。当然のことですが、八尺家の梨緒ちゃんは情報が早いです。春香ちゃんはそれを聞いてとても驚いた表情で私を見上げていました。梨緒ちゃんには許嫁がいるらしく、恋愛というものは最初から許されていないみたいです。しかし梨緒ちゃんは色々な人と恋がしたい、許嫁だけでは物足りないと話します。春香ちゃんも同じ考えのようで、色々な人と付き合って楽しみたいと、2人は盛り上がっていました。途中、春香ちゃんに淳さんについて尋ねてみましたが、春香ちゃんには合わなかったみたいです。
私はあいづちを打ちながら、2人が私とは全く違う女の子であると実感しました。私は1人の人に好きになってもらえればいいと考えていたのですが、2人は違うようです。たぶん、私が変なのだと思います。そもそも家庭教師の先生と16歳で結婚するなんていうのは、いわゆる禁断の恋です。普通じゃやっちゃいけないことです。今でも、色々な人から言われます。
でも、この選択を後悔したことは一度もありません。今後もないと思います。すべて私が決めたことで、自分が精いっぱい悩んだ末の答えであることは事実です。この先どんなに悲しいことがあったとしても、納得できると思います。
風が吹いて、体がぶるっと震えます。気分が悪くなってきたので、2人に断って上着を取りにお屋敷に戻ります。2人は私がいなくなっても後ろで楽し気におしゃべりをしています。色々と考えてしまうことはありますが、私は一番の仕事は、お腹の赤ちゃんのために体を大事にすることですから、早足でゆっくりとお屋敷を目指して歩き続けました。
-FIN